彼が、いつもと全く変わらぬ足取りで歩いていった。それを見咎めたのには、私だけが知る理由が存在した。
あぁ。彼は死んでしまうのだわ。
私は、いつものように何の感慨もなくそう感じた。その筈だった。
戦乱の世の中に、当然のことながら孤児は絶えぬものだ。
私もそのうちのひとりであった。
その私が、朱塗りの欄干に凭れ、うつくしい絹の衣を身につけ、日々の食事を満足に、しかも豪勢に得ることができるこの身分には、もちろん単なる幸運以外の理由がある。
私は巫女だ。ひとの終焉を予言する。
だが予言するだけで、定められた現象を変えることなど出来はしない。この能力の希有さと不思議さに、誰もがだまされているように思えるが、要するに実のところ、何の役にも立ちはしないのだ。
彼には子と妻がある。幾度か見かけた。子はまだ幼く、年は三つくらいであろうか。おとなしい、手の掛からなさそうな男の子だ。その子の母親もまた控えめで、これといった特徴のない、けれどそれゆえに、その懐へとどのような遠くからでも帰ろうと、男は誓うのであろうと思う、そんな穏やかでやわらかなひとだった。
私は彼を追い、欄干の影からその風景を見ていた。
彼は子供の頭を撫でながら言った。
「いい子にして、言うことをよく聞くんだよ。そうしたらたくさんおみやげを持って帰ってくるからね」
私は知っている。おみやげ、のことばに目を輝かせたあの子の手におみやげは届かない。
約束は破られる。
ひとは運命に対し常に無力だ。
そこに感傷の入る余地はなく、ただそれが人の世というものだ。
妻と子を見送った彼が振り向いた。
そして私の姿を見つけ、穏やかに微笑んだ。
「──道に迷いましたか?」
私は嘘をついた。
「…ええ」
幾つもの予言があった。
私は、今まで一度たりとも、それについて何かを思ったことなどなかった。
「戦場へゆかれるの?」
「ええ、明日早朝に発つのです」
「なのに今宵奥様のもとへは…?」
妻子を送り出しひとり残った彼に、私はそう問うた。
愛するひとと過ごしうる、最後の夜であるのにと。その部分を口に出しはしなかった。
「あれは既に私のものではないのです。年に数週も、うまれどころへ留まらぬいくさびとは、妻を持つべきではなかったのですよ」
彼は淡々とそう語った。
「送りましょう。住処は?」
私は少々躊躇ったが正直に答えた。
「朱瞭宮です」
彼がわずかに息をのんだ。
朱の宮殿に住まうその巫女の名は、誰もが気を引かれずにいられぬ予言をするが故に、広く知られていた。
「では…貴女は朱瞭宮の…」
「…ええ」
「なぜ私のもとへ?」
「……」
私は咄嗟に答えられず、一瞬の沈黙をそこに置いてしまった。
要するに、彼に質問の答えを提示してしまったのだ。
「私は死ぬのですか?」
今まで幾度かあった同様の場面では、相手は叫ぶか怒鳴るか、さもなければ青くなり、訳の分からないことを言いはじめるやら、とにかく例外なく、誰もが相当の動揺を見せるものであり、対する私は、それに関して何の感慨も覚えぬのが常だった。
が。彼は相も変わらず穏やかであった。
その所為だったのであろうか。
私は彼を失いたくない、と思ったのだ。
その感情がどのようなものであるのかを理解したとき。
私は非常な驚きにつつまれた。
そのとき。彼が私の顔をのぞき込んだ。
「どうなさいました?」
それはやさしく、穏やかで、告げられたことの重大さによる波の存在を、微塵も感じさせぬ声だった。
彼は、呆然とその場に立ちつくした私の手を取った。
「大丈夫ですか?」
決定的に彼自身に関わる予言の衝撃よりも、目の前にいる女の様子がおかしいのが気になるのか。
「……死をおそれぬひとを初めて見たので、驚いてしまったのです」
そう私が答えると、彼は意外そうな顔をした。
「まさか。私は死をおそれぬほどに強くはありません。残された夢も、ひとも、すべてをあきらめなければならない…。かなしく、痛い」
「それなのに平然としていらっしゃる」
「平然と…そう見えますか」
彼が苦笑した。
「そうですね。或いは貴女に予言されずとも、遠からず私に死は訪れる。そのことを知っていたのかもしれません。すべてのことがいつまでもは続かないのだと」
無常。
私は常にその傍にいた。
幾つもの予言があった。
私は、今まで一度たりとも、それについて何かを思ったことなどなかった。
心の裡に波風が立つ。
それは初めてのことだった。
「…私は母を知りませぬ。私は父を知りませぬ。故に愛もまた知りませぬ。けれど、あなたが危機に陥ったその時に、私の名を呼んだなら、きっと私の心があなたへと届き、如何なる武器よりも強固にあなたを守るであろうこと、それが確信できるこの心のことを、ひとは愛と呼ぶのでしょうか?」
「確信できるのですか?運命の定まったこの私であるのに」
「──何故だか。如何なる力に依ってかは知りませんが」
「それは、不思議ですね」
知らぬ、といいながら。
その正体を私は、今まで見知らぬ知識として持っていた。
「貴方は知っているの?」
白い衣で隠した晒したことのないまだ膨らみ足らぬ双の乳房。
恐ろしくもあり、それでも触れて欲しくもあり。
私を奪えと命ずることなど出来ない。
私はまだ幼く何も知らない。
けれど私は私。個としての私。巫女としての私ではない私。
抱かれたいと願うのは個としての私。
あなたの無事を祈るのは巫女でない私。
それに足して個としての私。
戦の勝利を願う巫女としての私。
彼の無事を祈る個として巫女としての私。
そして、彼の死を予見した、巫女としての私。
「知っていますよ、多分」
彼が、笑った。
私が死を予言するために、この朱塗りの大きな宮殿に住めるのは、その力が純然と役に立つからだ。
死にゆく人間の数によって、戦況を予知することができる。机の上で量的計算が出来る。これほど便利なこともそうはないだろう。
そして予言を終えた私は祈る。ほかの巫女たちに混じり、戦の勝利と兵士たちの無事を。なんと馬鹿馬鹿しいことか。それでも、それが巫女たちの役目であるがゆえに、祈る。
救えないものの数を知っているのに。
「私の予言は破られたことがありません。けれど破ろうとしたこともなかった」
「それは貴女が予言をする側であって、される側ではなかったから」
「戦へゆけば死にます。……路を変えても同様かもしれません」
「足掻くべきだと私は思います。他人の痛みなど真に推し量れはしない。が、それが自分に関わることであるのなら、もっと現実的に苦難の到来を感じとるものです」
「私の心が痛むのです。貴方が世界から失われる未来を思うと」
「ならばそれは貴女に関わることなのでしょう」
彼は私の手を取りそっと自分の胸に押し当てた。
「私が貴女に関わる現象で在れたことをうれしく思います」
彼は私のひとさしゆびにちいさく口づけて、そうして離すと、寝台から身を起こした。
「……行くのですか?」
「ええ」
「ならば私も行きます」
「どうして」
「私が唯一見つけた運命だからです」
彼は、わずかに驚いたように眼を瞠った。が、やがてその表情は、穏やかな笑みへと変わった。
「では共にゆきましょうか」
私は、床へ滑り落ちた衣を羽織り、微笑を浮かべた。
「ええ」
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