私は学校の教科書の入った重いカバンを持って歩いていた。隣に住んでいるおばさんとすれ違ったが、私は目を合わせず足早に通り過ぎる。
私が入っていく門の入り口には、赤い電気のつく「満室」という看板と青い電気のつく「空室」という看板が並んでついている。今日は青い方に明かりがついている。平日はいつもたいていそうだ。
そしてその横には、大きな大きなアラジンのランプが目に痛いほど派手に光る。
休憩するのは二千円。泊まっていくのは五千円。
私は暮れかけた陽が青い影を落とす道を、さらにてくてく歩いていく。
道の両脇に並ぶのは、まるでおとぎ話にでも出てきそうな派手な建物だ。そして私はその一番奥の、一軒だけある普通のおうちのドアを開けた。
「ただいまあ」
ドアを開けると中からはいい匂いがした。
「おかえり、月ちゃん!」
エプロンをしたパパが、おたまで味見をしている。
「今日は月ちゃんの大好きな煮物だよ」
パパが笑顔で言う。パパの作る煮物はおいしい。私の大好物だ。
「わあい!」
パパはママと離婚して、そして私を引き取った。それまで私は隣の町に住んでいて、けれどそこはママの実家だったので、当然のことながら私とパパが出ていくことになった。今まで普通のサラリーマンだったパパは、ママと離婚した途端に仕事を辞めて、そのかわりこの家と、おとぎ話に出てくるような極彩色の建物をいっぱい作った。車が直接入ってこれる、お城のような建物。ようするに、自動車ホテル。モーテルというやつだ。お客さんは直接車で入ってきて、そして車をガレージに入れて、自動販売機みたいなやつにお金を払う。
「この仕事だったらずっと月ちゃんと一緒にいられるからなあ」
そう言って笑うパパを見て、私はたまに思うことがある。
パパは知っているのかな。たとえば、前のおうちにいたときは近所の人には評判の礼儀正しい子だった私が、ここではあいさつひとつしないこととか。近所の人たちは、私たちが引っ越してきてここにラブホテルを作るのに反対だったから、だから私がとおりかかるとひそひそといかにも見え見えに陰口をたたいたりすることとか。おかげで私はラブホテルの娘だって、学校でからかわれたりするとか。あと宿題忘れたりすると、先生が私にだけ生活態度が悪いからだって言ったりすることとか、そしてそのあとまあ仕方ないかって含み笑いをするのとか。頭に来たから、職員玄関までこっそり行って、その先生の靴の中敷きに画鋲を仕込んでおいたこととか。
知ってるのかなあ。
「月ちゃん、ごはんできたよ、早くおいで!」
知らないだろうなあ。
「はあい!」
ご飯を食べて、パパとテレビを見ていたら、電話の着信音が鳴った。私は慌ててカバンに下げていたケースからPHSを取り出すと、着信相手を確かめて二階の自分の部屋へ駆け上がった。
『月ちゃん?』
電話の向こうから私の名前を呼ぶその声だけでうれしい。
「うん」
『ごはんもう終わった?』
「うん、今日はチキンの煮物!」
『月ちゃんの好物だ?』
「うん」
なんてことはない会話。けれどこれが今の私の宝物。
ゆりくんの優しい声。いつまでも聞いていたい。どんな話でもいい。下らないことでも何でもいいから、一分一秒でも長く聞いていたい。
そうして、だんだんゆりくんに会いたいというその想いだけで胸がいっぱいになってくる。
声を聞きたくて、でもそれだけでは物足りなくなってきて。
ゆりくんはどうなんだろう。私は会いたい。
でもゆりくんは毎日私とばかり話していてつまらなくないのかな。もし本当はそうだったらどうしよう。
それだけじゃない、いつか私たちの間に邪魔が入ってこうしておしゃべりできなくなったらどうしよう。
そんなことを考えていたら。
『どうしたの?』
言葉と言葉のあいだの、ほんの僅かな隙間をゆりくんはちゃんと発見する。
「う、ううん」
明日も会いたいって言いたい。
けれど昨日も今日も会ってる。いいかげん明日は別の人と遊びたいかも知れない。それでも私が誘ってしまったら断れないかもしれないし。
そんな思考がぐるぐる頭の中を回り続ける。
そのとき。
『月ちゃん、明日はどうする?』
ゆりくんが言った。
「えっ?」
『明日はうちに来る?』
ゆりくんが繰り返す。当然のように、明日はどうする、って。
『あ、それとももしかして何か用事ある?』
私が思わず黙ってしまったその間を、理由はわからないまでも、ゆりくんはまた微妙に感じ取ったらしい。
「ううん、用事ないよ。行く!」
私はうれしさを声に滲ませながら、電話を抱きしめるみたいな気持ちでぎゅっと握りしめた。
その時、階下からパパの声が聞こえた。
「月ちゃーん」
その声が電話の向こうのゆりくんにも聞こえたらしい。
『お父さんが呼んでるね』
言葉の感じが、じゃあそろそろ切ろうか、という雰囲気になってくる。この瞬間は本当に悲しい。仕方がない、かかってきた電話はそう遠くないいつか、受話器を降ろさないといけないものだと、最初からわかっているのだけど。
『明日、駅まで来たら電話して』
「……うん」
電話、切りたくない。
『じゃあね』
けれどその思いは伝わらず、ゆりくんはそう言う。私はこの時間が終わるのが心から残念で、毎日毎日こうして電話しているのにそれでもやっぱり今日も残念で、なかなか、「またね」を言えない。
けれど言わなきゃいけないときは来る。毎日。
しかたない。
「じゃあね、また、明日」
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