どうしてそのことを唐突に思い出したのだったか。
ちいさな頃に薔子が教えてくれたおまじない。
『白井の砂浜で真夜中に、渚の石を拾うのよ。そしてお願い事をするの。
そうしたら絶対かなうんだって。おばあちゃんが教えてくれたの』
思い出してから。気付くとそのことばかり考えている。
ほんとうにその願いは叶うのかしら、と。なんて他力本願な祈りだろう。
けれどそれがほんとうなら。
私は。もういちど、あのひとと。
そんなふうに、思っていた。
「薔子、走っちゃだめだってば!」
その声が聞こえないふりをして、歩道を人にぶつかりながら薔子が走る。
長いネグリジェのレースの裾が足にからまり、ガードレールを越えそこなった薔子の手首を、すかさず晴埜がつかまえた。
「薔子」
「あたし、足は遅くないの。走る機会がなかっただけで。知らなかったでしょう」
透けるように白い頬を紅潮させて薔子が言う。
「学校もろくに行けなかったけれど、それでもあたし、何もわからないほど頭も悪くないの。知らなかった?」
晴埜が薔子の手首をきつく握っていた。不意をつかれてまた逃げられてはたまらないのだろう。それを見た私の胸はちくんと痛む。けれど今はそれどころじゃない。
「知ってる。私はずっと知ってたよ。でも」
「あたしはやりたいことをやるの。やりたいように。邪魔しないで」
初冬の風が、陽が翳るにつれ、次第に透明な冷たさを増してゆく。それが気にかかってしかたがない。
「ねえ薔子、とりあえず戻ろうよ。風がつめたくなってきた」
「戻らない!どうせ病室に戻ったら、もう出さないつもりでいるんでしょう。ドアの外に見張りでもつけて?それとも麻由が自分で見張りでもする?あたしはいや。麻由が帰って、パパとママに伝えて!」
道をゆく人が振り返る。
レースのネグリジェを着ている長い髪の美しい少女が、車通りも人通りもそれなりにある白昼の大通りで、男に腕をつかまれたまま、制服のままの女子高生に怒鳴っている図、というのは確かになかなか珍しい見せ物だと思う。
「……わかってる。病室を見張ったりなんてしない。薔子のいうこともちゃんとおばさん達に聞いてもらうように頼んでみる。だからひとまず帰ろう。子供じゃないんだから、いちいち癇癪を起こして飛び出したって仕方ないじゃない」
「癇癪なんて起こしてない!あたしはね、何をするって言っても反対しかしないまわりのたくさんの、たーくさんの人に、人間として当然の権利を要求しているの、それだけよ!」
それまで黙っていた晴埜が、素早く自分の着ていたジャンパーを薔子の肩にかけた。そして手をあげタクシーを止め、薔子をその中に押し込んだ。目にもとまらないような早業だった。
「わかった。聞くから。だから帰ろう」
「何よ、あたしまだ帰るって言ってないわ」
そうやってまだ文句を言う薔子を無理矢理奥に押し込むと、晴埜もタクシーに乗り込んで、歩いても行ける距離にある病院の名を告げた。私もあわてて、そのあとからつるつるしたタクシーのシートにすべり込んだ。
突如病院脱走をした薔子は、病院の前に辿り着くなり看護婦に捕獲され、個室のベッドに点滴の管やらなにやらでしっかり縛りつけられたあと、主治医にこってりと油を絞られた。
「ママ、あたしあしたから学校に行く」
窓の外を見つめ、少し青ざめた唇で薔子が言う。
「今は無理よ、もう少しよくなってからじゃないと。季候もよくないし」
「今行かなきゃ意味ないのよ」
薔子は言い出したらなかなか聞かない。それがどんなに無理なことでも。そして言うだけではおさまらず、かならずそれを実行に移そうとする。今日のように。
薔子の走っていこうとした先には、彼女の家と、通っていた学校がある。
「あたし嫌な話聞いたの。学校で下級生が晴埜に告白したとか何とか」
「……」
誰よわざわざそんなことを病人に喋ったのは、と、私は心の中で悪態をついた。
「あたし。自分がいないところで晴埜を他人に取られるなんて冗談じゃないから」
「そんなこと言ったって薔子」
薔子の母はためいきをついた。
家は隣、年は同じ。薔子は幼なじみで親友だ。
正常でない心臓を持って生まれて、育って来た時間の半分以上を病室で過ごした薔子は、世界をなかなか広げることができない。学校に行けたとしても、続けて二ヶ月も行ったかと思えばすぐに入院で、なかなか他人と親しくなる機会も少なかった。
だから仕方のないことなのかも知れない。私の初恋の人は、いまは薔子のものだ。晴埜を連れて薔子の病室を幾度も幾度も訪れた。それが間違いだったといえばそれまでで、後悔なんてしてる。けれど今となってはもう、仕方がないことだ。
「あのねママ、もう少しよくなったらって言うけどそれっていつ。今回の入院なんてもう一年よ?ちっちゃい病室に一年閉じこめられっぱなし。子供の頃から出たり入ったりしてたけど、今回が最高記録なの。そして今も記録更新中。いつ出られるってちゃんとわかってるならそれまでくらい我慢するわよ。だけど10歳まで生きてられたらラッキーのあたしが17歳、この先あるの? ないの? あたし全然わかんない。治るってわかってるなら無理しない。でもそうじゃないのわかってるから我慢できない。学校行くから明日からあたし」
唇は色を薄くしているのに、頬は紅潮して赤い。興奮しているせいばかりとも思えなかった。
「薔子」
私は気が気ではなくて、薔子を黙らせようとした。そのとき。
「確かに言われた。知らない女の子に、好きだって」
穏やかに、晴埜が口を開いた。
「俺がそれでなんて言ったか聞きたいの? 聞かないと信じられない?」
薔子が負けん気の強い子供のような目をして、晴埜を見上げて睨んだ。
「……」
「知ってるよね」
「……知ってるけど。どうしてあたしはそれを確かめられないの。他の女の子がどんな目で晴埜を見ているのか。それをどう晴埜が受けるのか。あたしに関係のないことじゃないのに、全部あたしのいないところで終わってく」
きゅっと薔子が唇をかんだ。
「……くやしい」
反対側を向いてしまった顔が髪に隠れて見えなかった。一瞬、泣いているのかとも思ったが、多分そうではないだろう。薔子はまず、人前で泣いたりはしないから。
晴埜は薔子の無理に顔を見ようとはせず、そのままやさしく頭を撫でた。
私はその光景を、何をするでもなく、ただ眺めていた。
帰り際に、薔子の母が、申し訳なさそうな顔をしながらも、晴埜に言った。
どうか薔子を見捨てないでと。我が儘な娘だけど、晴埜君がいなくなったらあの子、どうなるか、と。
どうなるかなんて。私は少し考えてみた。けれど思いつかない。何かまた、激しく突拍子もない、迷惑な行動に出るのは間違いないと思う。薔子はとても、とても晴埜のことが好きだから。
晴埜君がいなくなったらあの子、どうなるか。
私がいなくなったら薔子、どうするか。
薔子は頭も勘もいい。だからわからなかったわけがない。私と晴埜がつきあっていたことを。私は確かに言い出しにくくて、黙ってはいた。けれど薔子は知っていたはずだ。
晴埜とならんで歩いて、私はほんとうは彼に聞きたくて仕方のないひとことがあった。
「私も病弱だったら、あなたは私を選んでくれた?」
と。
もちろんそんなこと聞いたりはしない。あまりに自分が惨めだから。
「……ねえ、晴埜」
「ん?」
「渚の石の話って、知ってる?」
「いや、知らない」
「真夜中に白井の砂浜に行って、渚の石を拾って願い事をするの。そうしたらそれはかならず叶うんだって。この町に昔からある、有名な話」
白井の砂浜には、道もろくに通っていない、うっそうとした樹林を通らなくては行けない。
そんな場所に、真夜中になんてとても行けるはずがない。だからこそそんな噂が広まるのかも知れないけれど。
「もしその石をみつけたら、麻由はなんて祈る?」
「……そんなの内緒だよ」
ほんとうは晴埜を取り戻したくて、幾度か夕方頃に、白井の砂浜への道を歩いてみた。けれどそこは歩きにくくて怖くて、夜なんて絶対に入っていけないと思った。
「私は根性なしだからねえ。夜の渚なんて行けないの」
「そうか」
「うん」
学校帰り。用事がなければ私は大抵、薔子の病室に足を向ける。この日もそうだった。
薔子の病室をノックしたが、返事がなかったので、私はそっとドアを開けて入った。薔子は長いまつげを閉ざして眠っていた。点滴の横にセットされている機械が定期的に音を鳴らすけれど、あとはとても静かだった。私はいつも通り、枕元の丸椅子に腰掛けた。規則正しい寝息が聞こえる。顔色はあまりよくなくて、少し私は心配になった。
ぼんやりと椅子に座ったまま、私は薔子が目覚めるのを待っていたが、いつもなら起きてもいいはずの時間になっても、なかなか目を覚まさない。疲れているのかも知れない。あんなに派手な脱走劇をしてのけたあとだ。当然といえば当然だけど。
私は立ち上がり、空気を入れ換えようと窓を開けた。そのとき。
「閉めて」
唐突に薔子の声がした。
「起きたの?」
「窓閉めてよ、麻由」
つっけんどんな調子で言われて、私は少しむっとした。
「なんでよ。空気くらい入れ換えたら? 今日はそんなに外寒くないんだから」
「風の音が煩い」
「……あ。そう」
言われたとおり窓を閉めて、私はそのまま窓際に立っていた。何の気なしに道を見下ろしていると、薔子が言った。
「今日は晴埜は来ないわ」
「……別に私、晴埜を待って外を見てるわけじゃないんだけど」
「あらそう」
私と薔子とのあいだに、ざらっとした、いやな空気が流れていた。幼なじみだから遠慮もないぶん、機嫌が悪いときに相手にあたってしまう、こんなこともあるのだった。
「風の音も煩いなんて、昨日あんな風に無理するからでしょう?病院飛び出したりして。馬鹿じゃないの」
薔子のとげとげした雰囲気に触発されて、言葉がきつくなってくる。病人相手に、と思ったのだけれど、止まらなかった。
「麻由にはわかんないよ」
「わかるわけないでしょ。私薔子じゃないもん」
「つめたいね」
「別に。当たり前のこと言っただけでしょう」
薔子が何か言い返そうとして、けれど言葉をしまい、ためいきをついた。
「……不安だから」
天井を見上げて、薔子が言った。
「あたしはここにいなきゃいけなくて。晴埜が生きている時間の殆どを知ることができない」
「……」
「彼はあたしのことが好きよ」
薔子はそう言い切った。迷いもなく。
不安だ、などとつぶやきながら一瞬先には、自信たっぷりにそう言う。
「だから何」
「だけど晴埜を好きなのはあたしだけじゃない」
「……それってさ、薔子、私に言ってるの? 不安になるから晴埜に近づかないでって?」
「まさか。晴埜に近づきたいならそうすればいいわ、誰だって。あたしはなんとも思わない。晴埜はあたしのことが好きよ。晴埜が昨日言ったわね。俺の口から聞かないと信じられないのかって。ほんとうは必要ないの。だって知ってるもの。あたしは誰よりも晴埜を夢中にさせることができるって」
その通りなのかも知れなかったが、私はその薔子の言葉を聞いて苛立った。確かに薔子は、すれ違う人が思わず振り返るほどきれいで、魅力的だけれども、臆面もなくよくそんなことが言えるものだと思った。
「何なのその自信は一体どこからくるわけ? よくそんなこと言いきれるね。どんな根拠があって?」
「根拠?」
馬鹿にしたように薔子が笑った。
「あたしは逃げたりしないもの。こんな風にベッドに縛り付けられて、いろんな制約を負ったけれど、それでもその中でできるだけかそれ以上のことをずっとあたしはしてきたから」
薔子の頬が、ばら色に上気していた。
「あたしはあたしにできるだけのことを、ずっとずっとしていたの。そんなあたしが誰に負けるっていうの。同情でだって何だって。どんな手を使っても、あたしはあのひとのことが好きだから、かならず振り向かせたわ。……麻由はどうしてそうしなかったの」
思いがけず話を振られ、私は取り繕うこともできずにうろたえた。
「なによ、私は……」
「どうして簡単にあきらめたの? こんな可哀想なあたしに義理立てして? そうじゃないでしょう。きずつくのを怖がってばっかりいるから、いちばん大切なものをなくすのよ」
かっとなって、私は何か言い返そうと思ったが、何も言えなかった。
無言で鞄を取って、私はそのまま大股で部屋を出て、後ろ手にドアを閉めた。誰もいない非常階段を八階分、ぐるぐると駆け下りながら、瞼の端ににじんだ涙を袖でぬぐった。
平静を保てなかったのは、まさに言われたとおりだったから。いつも引っ込み思案で、恐がりで、きずつくことを怖れてばかりの私が、薔子に勝てるわけなんてなかった。
私はとぼとぼと帰り道を歩いた。
ベッドの上の姿ばかりを見ているのに、いつも戦っている印象の薔子。私はあんなふうになれない。渚の石のおまじない、なんて安易なことを夢に見て。あげくそれを取りに行くことさえもできないような臆病者だもの。
だけどほんとうは彼がとても好きだった。あんなに好きになった人なんていない。かなしい。恋人同士だった時みたいに。たとえば放課後の教室で、ひとり、待っていてしまうのに。足音を。声を。向けられる笑顔を。
薔子に晴埜を奪われた私は、その理由を、薔子が病弱で、いつまで生きられるかわからないような子だったからだと、自分に言い訳していた。だから私は何も悪くなかったんだよ、と。でもほんとうは知っていた。薔子が晴埜を奪ったんじゃない。確かにこうなったのは、薔子が晴埜を好きになったからだけれど。それだけじゃなくて、晴埜が薔子のエネルギーに惹かれたから。
いつ死ぬかわからないのに。否、その所為なのか。薔子の持つエネルギーはすごい。端から見ていて眩しいくらいだ。それが薔子の生命を削ってゆくのではないかと、そう思わずにいられないほど。
ずっとうらやましく思っていた、その力が、晴埜にも美しく見えたとしても、それは何も不思議じゃない。だって同じだから。きっと、私が薔子を好きだと思わずにいられない理由が、晴埜のそれと。
私は暮れてしまった空を見上げた。しらじらとした月が、中天に向けて昇りはじめていた。なぜかポケットの中につっこんでいた手の、指先が、ちりちりと軽く、静電気がはじけたように痛んだ。なんだろう、そう思った瞬間、鞄にぶら下げていたPHSの呼び出し音が鳴った。
発信元を見て私は胸を高鳴らせた。晴埜?どうして。
『麻由?』
せっぱつまった様子の、晴埜の声が耳に飛び込んできた。
「どうしたの?」
『病院から……薔子の容態が急変したって。今、連絡があった』
「……え?」
ICUの赤く灯ったランプを私は、長椅子に座って見上げていた。
薔子の両親や親戚、そして薔子の家とつきあいの長い私の親もいつの間にか来ていた。私の隣には晴埜がいて、落ち着かない様子で立ったり座ったりしていた。いつも馬鹿みたいに落ち着き払っているくせに。
私は短い間だったけれど晴埜とつきあっていたので、今の晴埜の様子が尋常でないことはわかる。こんな晴埜を見ていると、どうしようもなくわかってしまう。彼は薔子のことをほんとうに好きなんだということが。もしこれが薔子じゃなくて、たとえば交通事故にあった私、だったとしたなら、心配して駆けつけてくれはしても、こんな風にはならないだろうと。
そのことが、もう私にはわかってしまう。
私がどんなに晴埜のことを好きでも。このひとを自分の元に取り戻したいと願っても。それはまったく無駄なことだ。
私は椅子から立ち上がった。そして病院の出口へ向かって歩き出す。
「麻由?」
晴埜に呼び止められて私は振り向いた。
「何」
「どこへ……」
「白井の砂浜に」
「……え?」
驚いた様子の晴埜を残して、私は駆けだした。
病院の玄関を走り抜け、あかりの見える道を目指す。私はトラックのヘッドライトを避けながら、湾岸の通りを横切った。背後でクラクションが鳴る。それを背に私は駆けた。海沿いの道のはずなのに、この道から海は見えない。暗く分厚い防風林に遮られて。数分も走り続けただろうか。電信柱の町名が白井に変わったあたりで、私は足を止めた。
暗い森が私の目の前で揺れる。数歩先も見えないその暗闇に私は怯え、立ち止まった。
白井の砂浜、願いを叶える石のあるはずの渚はその向こうにある。
私はぎゅっと手を握りしめた。
意を決し、私は揺れる黒い森の中へ一歩、踏み出した。
びゅう、と、風が唸る。
防風林の向こう側では海風が絶えずその砂浜を撫でている。その風が森を揺らす。ばさ、と葉のついた枝が私の頬を横殴りに叩いた。わたしはそれを払いのけようと腕を振り、バランスを崩しよろけた。
「きゃ……」
太い木の幹にぶつかり、転びはしなかったが、打った肩が痛い。
かさなりあう葉に天を遮られ、足下を照らす月もない。ひとまわり見回したらそれだけで、前も後ろも見失ってしまいそうだった。
私は動悸の止まない胸にぎゅっとこぶしを押し当てて、足に力を込めた。
背後を車の排気音が通り過ぎてゆく。大丈夫、と私は私に言い聞かせる。私は前を向いている。道を見失ってなんていない。大丈夫だ。
私は顔を上げ、ゆれてしなる黒い木々の影を、まっすぐに見据えた。
すべての恐怖を振り払うようにして、歩を踏み出した。しっかりと。そうして唐突に気付いた。祈りはただそこにあることが重要なのであって。問題はその願う力を如何に集約するかなのだと。
不自由な運命にまとわりつかれ、それでも薔子はいつだって、欲しいものの大半を手に入れてきた。渚の石になど頼らずとも、彼女自身の力で。
あのときまだ幼かった薔子は、瞳をきらきらさせて言った。
『白井の砂浜で真夜中に、渚の石を拾うのよ。そしてお願い事をするの。
そうしたら絶対かなうんだって。
今はそんなふうにかなえたいお願い事はないの、
けれどそのときがきたら、きっとあたしは渚の石を取りに行くわ』
薔子にとって今がそのときなのではないか。
なのにベッドに縛られて、彼女はどこへも行けない。薔子は行けない。渚の石を取りに。
いつか晴埜を取り戻すために、私は渚の石を取りに行こうと思っていた。けれどもういい。何事も思わずあきらめられるわけではないけれど、晴埜が私のものになるよりも、大切なことが今私の目の前にある。
私は薔子を失いたくはない。
それこそ、晴埜をもう一度取り戻したい、という、今までは最重要であるように思えていた、その事象を遥かに超えて、願う。
私は暗い道を走り、ゆくてを遮る防風林の枝を手折り、見えない足下を縦横無尽に走る木の根に足を取られ転んで、膝に腕に傷を作りながら海岸を目指した。
たとえば祈るために必要な聖句だとかお経だとか舞だとか、そういったものに願いを込め託すように。
苦行にも似た道のりを進むその力が、薔子のために祈る力へと、変換されるのではないかと私は思った。
大丈夫。何も恐いことなどない。薔子が死んでしまうことよりも怖いことが、目の前の暗い道、その先に待っているとは思えない。だから大丈夫。
呪文のようにそう繰り返しながら、どれほど進んだだろうか。しなる枝を払いのけた私の目の前が、いきなり開けた。
久しぶりにあかるい月の光に出会い、砂浜にのびる自分の影を私は見た。その向こうに広がるのは、天地の境もなく虚空のように開いた、闇の大地だった。闇色をした地面は、近づくと水のゆらぎを見せ、打ち寄せる波の音だけを耳に触れさせる。
灰色の海岸は砂ばかりを積もらせて、石ころなどひとつも見あたらない。見つけなければいけないのに。どうしても。
神様どうか、どうか薔子を奪わないでください。
暗闇は何もかもを未知のものにする。ゆえに私は海の暗さを怖れていた。
今私が怖れているのは、薔子を失うという未知。
どうか薔子が死にませんように。晴埜を取り戻したいなんて、そんなことはもう祈らない。ただ薔子が。薔子が私の目の前からいなくなりませんように。
砂に足を取られながら私は走り、とうとう波打ち際に、たったひとつだけ、光る石を見つけた。
それは磨かれた珠のように、月の光をうつしてきらきらと、輝いていた。
私は一瞬の間も惜しく、光るちいさな石に、突進するように手を突っ込み、砂ごとつかみ取った。
それを胸に抱き、私は遠く、判然としない天と地との境を見た。
スカートの裾が濡れて、つめたい風に吹かれて足を冷やした。
『麻由だ』
風の唸りが空耳を届けた。薔子の声かと思って私は振り向いたが、もちろんそんなわけはなかった、が。
祈りが届いたような。
そんな気がした。
目を覚ますと薔子は、いちばんに私を呼んだ。
「麻由がいたのよ」
「え?」
聞き取りにくいちいさな声で。けれどそれは確かに、生きている薔子の声だった。
「自分と自分じゃないものの境目が曖昧な、ぼんやりとした、暗い世界に私はいたの。ああ今度こそあたしは見たことのない世界に行っちゃうのかな、って。そう思ったわ……。でもね、いきなり、雷みたいに、あたしとあたしにとけている暗い世界じゃないものが、そこに落っこちてきたの。──それが麻由だった」
「私?」
薔子が目でうなずいて、笑った。
「それでね、あたし、『麻由だ』って言ったの。そこにいるんだって確認をしたくて。そしたら、ICUのごちゃごちゃした導管がいっぱい絡まった天井がね、見えたのよ。次の瞬間には、疲れて寝ちゃったけれど」
「そう……」
泥だらけになって病院に戻ると、薔子の親戚と私の両親は家に戻っており、そこには晴埜と薔子の親だけが残っていた。手に握った石を見て、晴埜は不思議な顔で笑い、薔子が峠を越したよと教えてくれた。そしてもうひとつの、ちいさなエピソードも。
「まだ眠った方がいいよ、薔子」
「うん……そうする。とっても眠い……」
目を閉じた薔子はすぐに寝息を立て始めた。私は音を立てないように、扉を開けて廊下へ出た。
「薔子は?」
長椅子から立ち上がって晴埜が聞いた。
「うん、眠っちゃった」
「そうか」
まだこの至近距離で話すと、胸が苦しくなる。けれどそれもそのうちに、きっといつか感じなくなってゆくはずだと、私は信じることにしたのだった。
生きているかぎり、どんなきずもやがて消えてしまう。時間が止まらないかぎり、すべてのことは記憶の片隅に埋もれてゆく。
「私一度帰るね。晴埜はここにいるんでしょ?」
「ああ」
「それじゃあね。またあとで」
ICUに入っていた薔子の、心臓は一度動きを止めたらしい。その瞬間、薔子が目を開けて、『麻由だ』と言った。その場にいた誰の耳にも、間違えようのない程にはっきりと。そして次の瞬間に、心臓が動き出した。医者も驚いていたという。
それならあの海岸での空耳は案外、空耳ではなかったのかも知れない。
私は海岸で宝石のように光っていた石を、取り出して眺めた。
けれどポケットから出てきたそれは、ただのごつごつした灰色の石で、もう輝いてはいなかった。
祈りは聞き届けられ、ちいさな奇蹟はその力を見せ終えたのだろう。
石ころをポケットに戻して、私はくすりと、小さく笑った。
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