午後三時の学食はがらんとしていてなんだか空洞のようだった。
 役目を果たす時間が来れば人を抱えふくれあがり、けれどその時を過ぎればまた虚へと戻ってしまう。
「それでさぁ」
 たばこの煙。きれいに形を整えた爪には透明のマニキュア。
「美幸がそんなこと影で言ってるのを真奈が聞いちゃって、もう泥沼。どうするんだろうね」
 他人のうわさ話で楽しそうに笑う、その神経は私の理解の範疇外。
 向かい合わせに座っているのは秋吉可南。高校時代からのつきあいで、長い時間を一緒に過ごしてきただけあって気心も知れているのだけど、友達というにはうっとおしく、けれど誰よりも一緒にいる時間が多いような、私たちは、そんなよくわからない関係にある。
「大体同じ男好きになるのが間違いでしょ、わかってるわけじゃない、そんなことしたらどうなるか。要するに頭足りてないっていうか。『あたしたち親友じゃなかったの?』とか言いながら喧嘩? くだらない。女同士の友情に罅! だってもう週刊誌の見出しみたいで笑っちゃう。馬鹿じゃないの?」
「秋吉」
 私はひとりで満足げにけらけら笑う秋吉の話を強引に遮った。
「人の噂はもういい、つまんない。いつも言ってるでしょ、別に聞きたくないって」
「あっごめん。でもおかしくない?」
「別に」
 私は冷たくそう言って、ビーフシチュー定食についてきたホットコーヒーに口をつけた。
 苛々する。
 ねえちょっとつきあって暇だから、昼ご飯おごるわ。
 その言葉につられてついてきた自分を、私は少々悔やんでいた。
 延々と続く下らない話。何がおもしろいのかちっともわからない。
 私は決して善人ではないが、それでもせめて美しき偽善人生を歩む夢くらいは持ちたいので、他人のうわさ話で喜べるような価値観を自分に育てたくはない。たとえそれがどれほどにおもしろい話であろうとも、それを聞いて喜ぶようでありたくはない。
 故に彼女のこういった話は、いつだって不快だった。
「しゃべったら甘いもの欲しくなっちゃった。アイス買ってこようっと。美和子も食べる?」
「太るよ。そんなに食べたら」
「平気平気、私太らないし」
 ビーフシチュー定食コーヒー付きプラスベーグルサンドをとっくの昔に平らげた秋吉が、ハーゲンダッツアイスクリームを求めて売店へと駆け込んでいくスレンダーな後ろ姿を見て私はため息をつく。
 きらいなの?
 すきなの?
 よくわからなかった。
 なんだかんだ言って本当は僻んでいるのかも知れなかった。
 この不況時にイベント会社を立ち上げ、学生社長のくせに既に一財産を築き、美人で、頭もよくて、気前もいい。彼女を見て苛々するのは、そんな秋吉に対しての嫉妬がもしかしたらあったりもするのだろうか。下らない。
 私はまだ暖かいビーフシチューをすすった。
 秋吉のおごりの。 
 全然だめじゃない。と思った。



 その日は朝から晩までみっちり講義がつまっていて、終わった頃には私は疲れ果てていた。もうこれは気分転換に出掛けるしかないと思い秋吉に電話をしたら、ふたつ返事で飲みに行こうということになった。
「美和子?」
 待ち合わせ場所に現れた秋吉は隙のないスーツ姿で。
「ごめん、仕事だった?」
「さっきまでね。でも今日はもう終わり」
「いいの?」
「ぜんぜん平気」
 そういいながら秋吉はいつもの行きつけの飲み屋に入っていく。
「っていうかこの店にそのカッコウで行く普通?」
「え、だってここ安いしおいしいからいちばんいいじゃない」
 新宿西口、大ガード横のやきとり屋が私たちのいつもの和み場所だった。
「そういえば秋吉、お正月は実家帰るんでしょ?」
 そう私が聞くと、秋吉は少し硬い表情で首を振った。
「ううん、帰らない」
「え、そうなの。たまには帰れば? 近いんだし」
「ああ、うん、家ねえ……」
 秋吉の言葉の歯切れが悪くなった。
「実は帰れないのよ、家」
「えっ?」
「もしかしたら言ってなかったかも知れないけど、私、兄がいるのね」
 それは初耳だった。高校時代に、何度も秋吉の家に遊びに行ったけれど、兄の姿なんて見たこともない。
「知らなかった」
「うん、美和子と同じクラスになったの、二年の時だもんね」
 秋吉が煙草に火をつけた。ゆっくりと煙を吐き出す。足を組んで、スーツ姿で細い煙草を吸う秋吉は、小汚いこの店の風景とはどうにも合わない。
「兄が帰ってきてるの。病院から」
「病気?」
「違う。ノイローゼで精神科に入院してた」
「ええ?」
 突然の話に、私はびっくりしてしまった。
「ひとつ年上の兄なんだけどね、私たちの行ってた高校と同じところを受験して、失敗したのね。それで次の年に私が受かっちゃったでしょ」
「うん」
 私たちのいた高校は、地域ではトップレベルの学校だった。当時の同級生の中には、医大生やら東大生やらがごろごろいる。私も高校受験の時は大変だった。
「うちは古い家でしょう。期待をかけられていたのは長男だけで、私なんて放って置かれっぱなしだった。だけど兄は高校受験に失敗したのに、私が兄の入れなかった学校に受かっちゃって。私の家はほんとうに男尊女卑の家だからねえ。無条件に、兄の方が女の私より偉いって、そう刷り込まれてたわけ。なのに兄は私に負けちゃったでしょ。それが納得できなくて、だから自分が勝てる方法で、自分より妹のほうが劣るんだって、証明しようとしたの」
「証明?」
 ふう、と秋吉が煙草の煙を吐き出した。
「暴力。家庭内強姦殺人未遂」
「ええ?」
「びっくりしちゃうでしょ」
 ふふ、と秋吉が笑った。
「それで兄は無理矢理入院させられて。今度は、兄がいないことにされちゃった。だからうちに来たとき、兄が存在する気配さえもなかったでしょ? そういう家なのよ」
 私は高校時代に何度かお邪魔した、秋吉の家を思い出していた。大きくて立派な家。門から玄関まで行く道が、庭の中を曲がりくねって通っていた。池には鯉がいて、立派な松があったような気がする。秋吉のお母さんにも会ったことがある。これといって特徴のない、おとなしそうな人だった。
「お正月からあんな家に帰るなんて、縁起が悪すぎるわ。しかも兄が帰ってるし。会ったら何されるかわからない」
 まさに魑魅魍魎の巣窟、そう言って秋吉が笑う。
「私もそんなことがあるまではね、なんとか兄との関係を修復しようと思っていろいろしたんだけど。まさかあんな目に遭うとはねえ」
「……戻ってきてから、今は?」
「会ってないわよ。できれば会いたくないし、兄だってそうじゃないかと思う。……別に今はもう私は子供じゃないし、兄のことなんて怖くも何ともないはずなんだけど、ただ、反射みたいなものがあるのよね。目の前に兄がいるとね、昔子供の頃に兄に支配されてた記憶が甦るもんだから」
 頬杖をついて空のグラスを弄ぶ秋吉に、私は何を言っていいものかわからなくなってしまい、黙っていた。
「でも、まあ昔のことだから」
 秋吉は軽くそう言って、焼酎梅干し入りお湯割りのお代わりを注文した。
「うぅ、うまい。冬はこれよねぇ」
 熱くなったガラスのコップを持って、秋吉がつぶやいた。



 秋吉に近づいたのは、自分の方からだった。
 高校時代。派閥ができてまっぷたつに割れてしまったクラス内の関係が、それ以上悪化するのを防ぐために、たまたま目立つ場所にいた自分が、同じような立場にあった秋吉可南と仲良くして見せればいいんだと思った。
 その作戦は確かにうまくいって、険悪なことこの上なかったクラスの中のムードがそれで改善されたのだからよかったといえばよかった。
 私はそれまで、ほんとうは秋吉のことがどちらかといえば嫌いだった。我が儘で、口が悪くて美人で目立つ。扱いにくく、自己主張が激しくて、弱いものは踏みつぶしてもいいとでも思っているような傲慢さ。
 けれどそうして下心を持ってでも近づいてみれば、彼女の持つ性質は悪いものばかりではないということがわかった。
 秋吉とそうして親しくなってから、三ヶ月ほど経った頃だったか。私は生まれて初めてつきあった男の子と別れてしまった。もっと正確に言えば、彼に他に想い人ができてふられてしまったのだ。
 私ははじめて直面したかなしみに呆然としていた。どうしてこんなことになったのか、自分のなにかが悪かったのか、一生懸命考えようとしていた。けれど思考はまとまらなくて。何故か涙さえもでない。
 ただひとりで考えているのがさみしくなって、そして何故か私は秋吉に電話した。他にも話をできるような友達はいたのだけれど、私が電話したのは秋吉だった。
 日付が変わる直前の時間で、私は秋吉が起きているかどうかがほんの少し気になったが、それでもボタンを押す手を止められなかった。
「……もしもし?」
 電話の向こうの声は、案の定くぐもった、寝起きだとわかる声だった。
「秋吉? こんな時間にごめん……」
 自分ではなんとも思っていなかったのだけど。やはりいつもと声の調子が違っていたのか。それともそういう微妙な違いを見分ける感覚に秋吉が長けていたのか。
「どうしたの、美和子、何かあった?」
 寝ぼけていた声はいきなりすっきりとしたいつも通りの秋吉の声になって。
 弱っていた私は、何故かその秋吉の声を聞いて、これだけが今自分が頼りにできる唯一のものだと錯覚した。
 それがほんとうに錯覚だったのかどうかはわからない。
 けれど秋吉は飽きもせず、深夜だというのに眠いなどとはひとことも言わず、私の電話の充電が切れるまでいつまでもつきあってくれた。
 彼女は何も関係のない、私の話なのに。まるで自分のことのように一生懸命に聞いてくれたのだった。

 そんな過去があるから、私はいつまで経ってもこうして秋吉と一緒にいるのだろうか。
 彼女のすることを見ながら腹を立てたり、彼女の大好きな他人のうわさ話を聞かされて気分が悪くなってもそれでも。
 敵だと見なしたものを容赦なく叩き潰すようなそのやりかたを間近で見ていても。それを非情なものだと非難をしても。
 自分の調子のいい時に限られはするけれど、あの性格の悪さを可愛いと思ってしまえることがあったりするのは。
 離れられずにいるのは、そんな彼女の一面を知っているから?



「むかつくのよね」
 また学食で、私たちは向かい合わせに座っていた。今日の私のA定食は秋吉のおごりではない。
「どうしてよ」
「あっちも女学生社長。事業内容も似ている。邪魔なのよ。類似点が多いから必然的に仕事の取り合いになるでしょ。だから私はあの会社をつぶしたい」
 早食いの秋吉は既に自分の昼食を食べ終わり、トレーは片づけてしまってそこにはコーヒーと、なにやらわけのわからないことがたくさん書いてある資料がひろげられている。
「別につぶさなくたって。今のままでも秋吉の会社、利益もあげてるしうまくいってるんでしょ?」
「それとは別の問題よ。気に入らないの。ちょうど私と同じ場所に立ってる。同じように人の目にはいる。だからあれは私の敵」
 秋吉は世界に対する自分の位相を保つことに執着する。自分の地位だとか、その見た目だとか。
 私はそういうことが美しくなく見える。人のことなどどうでもいいと思いたい。自分で自分のことさえちゃんとできていたら、他の人のことなど気にせずにやっていけばいいと思っている。
 そんなふうに考えているのが表情でわかったのだろう。秋吉が言う。
「私の心はきれいじゃない、それが美和子はいやなの?」
 少し笑いながら。その顔が私を馬鹿にしているように見えて。すこしむっとした。
 無垢であることが美しいわけではないとわかってる。純粋なのが美しいというわけではないことも。
 けれど自分はきたないと思うものには近寄りたくないし、純粋なものを信じていたい。
「秋吉みたいなやりかたじゃなくたって、ちゃんとやってるひとはたくさんいるよ」
 私の説得力のない抽象的な言い方に、秋吉が声を立てて笑った。
「どうやって? 善良なだけのひとなんて私はいらない。悪人でもいいから頭がよくなきゃだめなの。役に立たないし、一緒にいて何の利もない。そういうひとは必要がない。だから勿論私だってそんなふうにはなれないしなりたいとも思わない。……そうしたいひとはそうすればいいけど、だけど私はそんなふうに生きていけないもの。そんなことじゃ負けるもの」
「負けるって何に。負けたっていいじゃない、負けたらどうなるっていうのよ」
 そういう私を、秋吉はため息をひとつついてながめた。
「生きていけなくなるってことよ。私の敵を潰して私が生き残らなきゃ、私の敵が私を殺して生きるっていうこと。美和子はそのままでいいわよ、それで不自由がないならそれで構わないでしょ。けれど私はそうじゃない」
「……」
「私たちは違うのよ。だからわからないこともある。それを嫌だって言われても私は困る。美和子はそうやってもしあわせに生きていけるんだからいいでしょ」
 煙草の煙を吐き出しながらそう言う秋吉に、見下されたように感じて、私は反発にも似たものを覚えた。



 なにかもやもやした気分のまま。
 それでも私と秋吉はいまさら絶交するでもなく、疎遠になるでもなく、淡々といつも通りの日常をつづけていた。
 大体がこういったぶつかり合いはそれほど珍しくもないことで、けれどいくらぶつかりあったとしても、私たちはあまりに見たいものが違いすぎて擦り合わさってゆくこともない。ある意味平行線であるとも言える。
 例のやきとり屋で、仕事帰りの秋吉とまた一杯やっていた。
「世の中ボーナスでバーゲンよ」
「バーゲン行ったの?」
「行きたかったんだけどね。仕事の合間に抜け出して、なんて計画立ててたけど、結局そんな暇なかったわ」
 悔しそうに秋吉が言う。
「バーゲンかぁ。金欠の私には関係のない世界の出来事だ……」
 そう言いながら私はカウンターに突っ伏した。
「お金ないならバイトする? 今会社の経理事務が足りなくて困ってるんだけど美和子やらない?」
「やらなーい。友達のところで働くなんてやりにくそうだもん」
「それじゃあさ、冬休みなのにバイトもしてないんだからどうせ暇なんでしょ、何もしなくていいから会社に遊びに来ない?」
「やだよ。そんなに暇じゃないもん……」
 秋吉と違って、私は正月くらいは家に帰るのだ。
「秋吉の会社は、冬休みないの?」
「ない。って言ったって、社長の私以外はほとんどバイトだしね。時間があって働ける人は働いて、そうじゃない人は休みだけど」
「ふうん」
 なんだか休日に家に居づらくて仕事をしている世の父親みたいだな。と私は思ったけれど、さすがにそれを口に出しはしなかった。
「よく働くね」
「ふふん。働かざるもの喰うべからずよ」
「……すみませんねえ」
 今日も秋吉のおごりで焼き鳥を食べている私は言った。
「いえいえ。出世払いと言うことで」
「でも多分秋吉よりは私出世しないと思うよ」
「じゃあ来世で」
 全くあてにしていない様子で秋吉が答えた。



 その夜。
 秋吉から電話があった。
『もしもし……』
 けれど私はいい加減酔っていたし、もう眠りに落ちる寸前だったので、長電話が大好きな秋吉の電話を私は取らずに、留守電にしてモニターした。
『兄から連絡があったの。……それだけ。じゃあね』
 兄? ああ、前に話していたあのろくでなし兄貴か。と、半寝の頭で私は思ったが、そのままずるずると眠りに引きずり込まれていった。



 大学でゼミの補習中、マナーモードにしてあった携帯が二回、ぶるぶると震えた。
 こっそりと携帯を引っ張り出してみると、秋吉からのメールだった。
 今日暇ある? と、いつもの誘いのメール。そういえばバーゲンに行きたいと言っていた。多分それだろうと見当はついたが、授業中だったので、面倒くささもあり返信は後回しにすることにした。
 それに今日はちょっとした予定がある。
 予定、といっても、まだ決定事項ではなく。同じ補講を受けている人の中に、ちょっと気になっている人がいるのだった。一度食事に誘ってみようと前々から思っていた。今日は補講だから人数も少ないし、誘いやすい。
 そういう目的があると、つまらなくて仕方のない授業も(そんなことを思っているから補習を受ける羽目になるのだが)多少は耐えやすいというもの。
 それにしてもこの教授の声は眠気を誘う。
 私はテキストに目を落としているふりをして、やっぱり居眠りをはじめてしまったのだった。



「……ふぅ」
 学食でひとり、私はB定食を食べていた。
 結局、意中の人は本日先約があるとかで、彼を食事に誘う計画はあっさり流れてしまった。
 誘った相手から断られる、というのはなかなかにさみしい。しかもそれが、ひとりで勝手に盛り上がっていたから尚更。
 暇つぶしに携帯を取りだしてメールを見る。そうして先刻の、秋吉からのメールを思い出した。
 折角だから秋吉とバーゲンでも行くか、と思って私は秋吉に電話をした。が、出ない。
 何だかがっかりして、今日は暇だ、と留守電に入れて電話を切った。ついていない。
 無論彼女も、年中暇なわけではないのだし、仕方がないといえば仕方がない。単にタイミングの問題なのだけど、こんなふうにいくつものことがすんなりとうまくいかないと、気分が塞いで来るものだ。
 そのうち、留守電を聞いた秋吉から連絡が来るだろうと、気を取り直して私は冷めつつある定食のスパゲティーナポリタンを食べた。
 そうして一時間、二時間と。学校を出て秋吉の連絡待ちで時間をつぶしながら私はひとりでぶらぶらとしていた。電話が来たら気付くように、携帯はポケットに入れたまま。
 けれど連絡が来ない。
 冬の夕暮れは早くて。あっというまに太陽は陰り、そしてすぐに夜がやってくる。
 携帯をポケットに入れたまま、結局ひとりでバーゲン中のデパートを歩き回った私は、少し疲れてガラス張りの喫茶店の窓際でコーヒーを飲んでいた。
 携帯を取りだして、もう一度メールする。
 そのまま飲みかけのコーヒーのそばに置いておいた携帯には、それでも返事が来ない。
 もう帰っちゃうぞ。家についてからメールをよこしても出られないぞ、知らないから。そう思って少し苛々しはじめた。
 今までは私が連絡をすれば秋吉の方から必ずすぐに返事があった。
 遊ぼうって気まぐれに言えば秋吉は必ず。

 ねえだけど。
 学生社長ってそんなに暇?

 ちょっと抜け出してバーゲンに行こうと思って、けれどその暇も取れなかったという秋吉。
 学生のくせに、飲みに行こうと待ち合わせれば、いつも明らかに会社から直行とわかる格好で来る秋吉。

 秋吉。
 何で出ないの電話に。



 唐突に不安になって、私はそこから地下鉄で二駅先の秋吉のマンションへ行ってみた。いない。
 それならきっと仕事なんだろう。
 そう、考えてみれば忙しくて連絡ができないっていうんだったらきっと仕事中に違いない。
 まったく、数時間連絡が取れないっていうだけで私は何を大げさに。
 別に心配になることなんて何もないじゃない。
 そう考えようとする、私の思考の端を、それでも不安が掠めてゆく。
 ふと思い出したのは、あの夜中の留守番電話。兄から連絡があったの、と。
 私は乗ってきた地下鉄にまた乗り直して引き返した。秋吉の会社があるビルまで走る。四階建ての白いビルの最上階。何故かこの雑居ビルにはエレベーターがない。仕方がなく私は階段を駆け上がる。息が切れる。もう、どうして自分はこんなことをしているのか。だいたい走らなきゃいけないことなんて何もないはずなのに。
 そう思った瞬間、上から大きな物音が響いた。そして、言い争う声と、悲鳴。
 ……秋吉?
 私はつかれて速度を落としかけていた足を再び走らせた。
「秋吉!」
 鍵がかかっていないドアをばたんと開けて入っていくと、そこにいたのは秋吉と、どこか彼女に似た顔の男。一つか二つ年上くらいの。
 秋吉の兄だ。
 部屋の隅に追いつめられて、手首を掴まれて秋吉が見たことないくらいに青ざめていた。
 子供みたいに。まるで別人みたいに、怯えた顔をして。
『目の前に兄がいるとね、昔子供頃に兄に支配されてた記憶が甦るもんだから』
 いつだったか秋吉が言っていたこと。これがそれだ、と私にはわかった。かわいそうだった。
 秋吉のあの攻撃的な性質は、自分の中に弱さがあることをわかっているからなのかも知れない。そんな外側の強さを保てなければ秋吉は、過去に潰されてしまうと思っているのか。
 だから彼女は、自分の敵を潰すことを厭わない。やらなければ自分がやられるという強迫観念。
 私が嫌った、秋吉のその性質。
 男が秋吉のピンクのスーツの襟首に手をかけた。まるでそれを引き破りそうな勢いで。秋吉の悲鳴が上がる。
「何するのよっ……!」
 殴りかかろうとする男と秋吉のあいだに割って入り、私は無我夢中でその辺にあるものを手当たり次第に投げつけた。灰皿がその額にあたって血が流れたが、それでも男は私を無視して秋吉につかみかかろうとする。私は躍起になって持っていた鞄を振り回した。濁った目が私を見る。視線が合って。嫌だ、と思った。こんな目で。こんな汚い目で私を、私の友達を見ないで。
「出ていって!」
 私は素手で殴りかかった。ひとを自分の手で殴るなんてはじめてで。その感触が重く肩に響く。
「よくも私の友達をこんなふうに!」
 無我夢中で振り回した自分のこぶしが、ごつっと何かにあたった。私はもう自分の手がどこにあるのか、今自分がどうなっているのかがよくわからなくなっていたが、ごんと大きな音を立てて、男が鼻をおさえてその場にひっくり返った。
「み、美和子……」
 背中から聞こえる秋吉の声で、私は唐突に我に返った。男は身を起こして、這々の体で部屋から出ていくところだった。
 その後ろ姿をよく見ると、がりがりに痩せていて細くて、あの手では何かを殴ったとしても腕の方が折れるんじゃないか、と思うほどに貧弱だった。骨と皮の背中からは、どんなエネルギーも見えなくて、あんなちっぽけなものが秋吉を脅かすことができるなんて、とてもとても不思議だった。
 けれどぎゅっと私の服を後ろから掴んだ秋吉の手は震えていて。
「秋吉」
 私もその場にしゃがんで。ぺたんと床に座り込んでいる秋吉と、同じ目線で、秋吉の手を軽く握った。
「だいじょうぶ?」
 こくん、とうなずいた秋吉の頬にはやっと赤みが戻ってきて。
「ありがと、美和子」
 ちいさな声で秋吉が言った。
「……」
 ありがと、どころでなく。私はあやまりたい気持ちでいっぱいで。
 こないだの電話に、出なくてごめんねとか。
 メールの返事すぐに出さなくてごめんねとか。
 たくさんそうやって、言いたいことがあったのだけど。
 けれど何をどうやって言っていいのかわからなくて。
 ただ、いなくならないでくれたらいいと思った。
 私の目の前にずっといてくれたらいいと。
 だっていないと、電話がないとそれだけで私はこんなに心配で。
「いなくならないで」
 秋吉が少し驚いたように私を見た。
 言ってしまってから、私はとても恥ずかしいことを言ったような気がして思わず赤くなってしまったが、秋吉は私が今まで見たこともないくらいの素直さで、うん、と頷いた。






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