──あのひとがいなくなった。
その報せを聞いたのは八月の終わりだった。あの人の乗っていた船が沈んだと。
雑音の混じるトランヂスタ・ラヂオから流れたそのニュウスを、わたしは人ごとのように聞いていた。
そう、まるきり信じてなどいなかった。
わたしは早咲きの桜の枝を手に取る。
桜の季節が来る前にわたしはいつだってあの人の部屋に桜を飾る。毎年必ずそうしてきた。だから今年だけそれをしない理由がない。
「桜」
かさ、とかわいた音と共に従兄の由埜が部屋へ入ってきた。
「頼まれていたもの、これでいいか?」
「ええ。ありがとう」
横浜へ出掛けるという由埜にわたしは花を買ってきてくれるよう頼んだ。近日では花を手に入れることすら容易ではなくなりつつある。けれど、由埜はいつだって頼めばこうして花を買ってきてくれる。
わたしの恋人は半年ほど、ここへは戻っていない。どこにいるのかわからない。
わたしは待つことしかできない。けれど待つことができる。
瀬里。それがわたしのこの世でもっとも愛するひとの名前。
あのひとが桜を好きなのが何故か知っている。それはわたしの名前だから。だからわたしは、たまたまわたしが家を空けているときに瀬里が帰ってきても、わたしと同じ花がわたしとおなじようにむかえてくれるようにと、今年は玄関に生けることにした。
半年ほど前。瀬里を乗せた船は、暑さまだひかぬ晩夏に海の藻屑と消えた。
船が沈んだのは認めてもいい。けれどわたしは知っている。瀬里は決して沈んだ船と運命を同じくしたりはしなかった。
あの人の触れたわたしの頬が。腕が指が足が知っている。瀬里がまだ存在しているということを、わたしだけが知っている。
「そこに置いておいてくれるかしら?」
わたしは片づけておいた木机の上をゆびさして、由埜にそう言った。
「……桜」
由埜が躊躇いがちにわたしを呼ぶ。
わたしは返事をしなかった。
こういう歯切れの悪い口調になったときに由埜が何を言うのか覚えてしまったから。
由埜だけではない。同じように何人ものひとたちがわたしを見ては同じようなことを言う。
誰もが信じない。あのひとが生きているということを。けれどそれを確かに知りながらも、納得できるように説明できぬわたしも悪いのかもしれない。
「お花をありがとう。あなたも忙しいでしょう。そろそろ帰った方がよくはないかしら?」
わたしは由埜が口を開く前にそう言った。
由埜はわたしのことを好きだ。
だからこうしていつも手に届く近さに彼はいる。
わたしはそのことを知っている。
けれどどうにもならない。
「桜」
可哀想にこのひとはわたしに触れることもできない。
わたしがそれをゆるさないから。
「いつまでもそうしているわけにはいかないだろう」
「いいえ。何の問題もないわ」
「もう帰らない夫のために花を生け続けることに問題がないと?」
「わたしが待っているのは帰らない人ではないから」
「そう思っているのは君だけだ、瀬里はもう帰ってこない。船が沈んで誰も助からなかったんだ」
もう何度この台詞を聞いただろう。あまりにも聞きすぎて、既にそのことばは何の感銘も恐怖もわたしに与えない。
けれどわたしは根気よく説き続けねばならない。
煩わしいことではあるけれど仕方がない。わたし以外の誰にも、遠く離れたあの人が生きているかどうかを知るすべを持たないのだから。
「だれがあの人の死体を見たの。あのひとが死んでいると、だれがどのように証明できるというの」
「そのことばをそのまま君に返すよ。人間は海の中に放り出されて生きていることはできない。人は沈むし、水の中で呼吸ができるようにはできていない。そして船が沈んだその場所から泳いでどこかの島へたどり着く可能性など万にひとつもありはしない。認めたくないのはわかる、けれどそろそろ現実を見つめなければいけない、そうだろう」
わたしは桜の枝を一本落とし、わずかに向きを変えた。思った通り、この方がうつくしい。
──如何に説明せよと言うのだろう。
言葉で伝えられる情報量には限度がある。なのにわたしの周りの人たちはすべて言葉で説明しろと要求する。無理だ。だって彼らはわたしのように細胞の中に瀬里を持っていないのだから。
流れる血の一滴。わたしのうちを駆けめぐる細胞のそのひとかけらまで洩れもなく、核に刻まれている。瀬里という存在が。
わたしは自分の心臓の鼓動を聞けば、あのひとがわたしと同じ空気を吸える場所にいるのかいないのか、そんなことくらい簡単にわかってしまう。あのひとを覚えている細胞が答える。それらは何度でも繰り返す。あのひとはいる。決してその存在が潰えてなどいないと。
わたしは新しい花を手に取ろうと立ち上がり、花といっしょに置かれた紙包みに気づいて開けた。春の色をした薄い布地のワンピースが入っていた。わたしは洋服など着ないと言っているのに。
彼はこうして新しいものをわたしに与えて何をさせようと望むのだろう。
その答えも本当は知っているのだけれど、やっぱりわたしはそれに答えることができない。
答えられぬことばかりを由埜はわたしに提示する。
わたしは瀬里を愛し、欲して、感じる。細胞のひとつずつがただ瀬里にだけ反応する。間違えたことなどいちどたりともない。あの人のことならばなにひとつ過たずわたしは完全に理解する。
瀬里に出会いわたしはどうしようもなく彼を望んだ。わたしに連なるもののすべて、爪の先の破片、一本の睫毛、頭のてっぺんからつま先のその先の先までのすべてが争うように彼が欲しいと叫いていた。
ひとが手に入れられる限界を超えてわたしは瀬里を求め続け、瀬里がやがてわたしにだけ笑うようになっても。それでもまだ望み求めた。
由埜をわたしは求めない。わたしは彼を好きだけれども、瀬里にそうするように魂を懸けて求めたりはしない。由埜がわたしに望むすべてのものが、わたしの意志と重ならない。
「あなたにはわからない」
わたしは仕方なく少し笑った。
「わからないわ、きっと。ごめんなさいね」
由埜がとても悲しい顔をした。
人は既にわたしを気狂いと言う。
どう考えたって生きているわけはない者を明日帰るかのように待ち続けるわたしが哀れだと。正気の沙汰ではあり得ないと。
けれど至ってわたしは正常だ。
わたしという存在が何らかの形で存続する限りわたしは全力で瀬里に焦がれるだろう。持てるすべての力で瀬里を愛するだろう。
たとえば今体のどこか一点にこころを集中したとする。爪の先。髪の先。つま先の指の一本一本、やわらかな頬の皮膚に腿の斜め左後ろ45度の辺り。そのすべての箇所は間違いなく瀬里に呼応する細胞のうちの何ものかで、そのものの名前をわたしは知らないけれど、存在はだけはずっとずっと知っていた。
そのわたしの感覚が全一致で告げる。あのひとはまだ消えてはいないよと。
だからわたしは馬鹿のひとつ覚えのように繰り返す。
「あのひとは生きているわ」
人は身の裡にひとつくらいは奇蹟の種を隠し持つ。
わたしは瀬里に関することを間違えたことがいちどもない。
わたしは知っている。
彼は生きて、そしてわたしを求め、やがてそれほど遠くない未来この場所へ戻ってくる、必ず。
それは予言ではなく。
単に明日の日記を先に書いてしまったようなことで。
鋏で切られた爪の破片。抜け落ちた数本の髪。そして破られた皮から流れて落ちるわたしの赤い血のその一滴ごと。
あなたを待つわたしが世界に広がってゆく。
核にあなたを記憶した細胞が。
それはやがてあなたに届くでしょう。
だからはやく。
早く帰ってきて。
瀬里。
01.4.28
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