「これもだめかも」
「何枚目?」
「四枚目」
 左手で長い髪をがしゃがしゃとかき回しながら、智恵子がうめく。どうやら調子が悪いらしい。
「不調だね」
「狙って描くとだめだね、やっぱり」
 放課後の美術室に、ちょうど西日が差し込み、部屋が朱く染まっていた。
 智恵子はアクリルガッシュのチューブを机の上にぶちまけて、画板の前で腕組みをしている。その散乱したチューブの横に、無造作に置かれているのは、『月刊むし』
 私は思わず、なんだこりゃとその雑誌を手に取った。
「それじゃ仕事にできないじゃない」
 智恵子と話をしながら『月刊むし』をぱらぱらとめくる。どのページを見ても虫、虫、虫だらけ。何匹ものクワガタムシに全部違う名前がついていたが、私にはどこが違うのかちっともわからない。
「そうなんだよ」
 黄色い絵の具のついた筆を、筆洗いバケツにつっこんで、智恵子はためいきをついてこちらに体を向けて座り直した。
「だめだ。きょうはだめだー」
「そうみたいだね。私が見てもわかるよ」
「やっぱりだめな感じ?」
「うん、下手。素人に毛が生えた程度だね」
「うう」
 智恵子は美術部員だが、私は違う。ただ受験のために、学校の美術室の一角を借りているだけだ。けれどいつも美術室で絵を描いている智恵子と、私は毎日顔を合わせていた。私は家が狭いので、学校で絵を描いていたのだが、智恵子も同じ理由で毎日学校にいるのだそうだ。美術部員が何人いるのか私は知らないが、大概家で描いてきて、文化祭の時などに作品を提出する人間ばかりらしい。もっとも智恵子にいわせれば、「みんなあたしが小学生の時に描いてたような絵と同じようなものしか描いてない」ということだった。
 智恵子と出会ったのは、学校ではない。芸大受験用に通い出した塾だった。同じ制服を着ている子がいるな、と思って描いているところをのぞき込んだら、そいつはやたら絵がうまかったのだ。
「そういえば模試の結果、さっき廊下に張り出されてた」
「ほんと? あたし見てない。あとで見にいこっと」
「堀江智恵子六位」
「あ、やった、一番上がった。洋子は」
「七位」
「ははは、今回はあたしの勝ちですねえ洋子さん。これであたし七勝?」
「違うよ六勝五敗だよ、私がまだ勝ってるよ」
 私たちはなぜかいつも、順位がくっついている。そして勝ったり負けたりだ。こんなところばかり仲がいいことこの上ない。
「一位は相変わらず?」
「うん、鏑木理美」
「才媛だねえ。ふふふ」
「そうだねえ」
「美人で秀才、絵に描いたようだ。いいねえ」
「いいって何が」
「うん、あたしの好きなシュチュエーションだ。ほぼマンガ的なまでに」
「マニア心をくすぐる?」
「最高に」
 智恵子は女子高生マニアなのだそうだ。この学校を選んだ理由は制服。しかも自分がかわいい制服を着られるのがうれしいからではなく、この学校に入ればその制服を着ている女子高生が見放題、ということで入ったのだと言っていた。
「まあ、智恵子の女子高生好きはともかくとして……うちの学校、制服だけはかわいいよね」
「だよね。あたし、バイト先でこの制服のおかげでモテモテさ」
「なに、この時期にバイト? 受験あるっていうのに」
「それがねえ、この時期しかできないバイトで。どうしてもやりたいんだよね。毎年やってるんだけど」
「何のバイトやってるの」
 私が訊ねると、智恵子はつぶれたカバンから、木箱を取りだした。
「うわっ、なんだなんだこれ」
「じゃーん。なんと、クワガタの標本を作るバイトでした。男のバイトのひとたちが、朝飯能の方まで行って、クワガタつかまえてくるのね。それを夕方出勤して、あたしが注射針をぷすって刺して標本にしていくわけよ。すっごくおもしろいよ」
 智恵子が嬉々として語る。
「なんだ、それでこの『月刊むし』か」
「うん、その本おもしろいんだよねー。少部数発行だから高いのが難だけど」
 彼女は変わっていた。
 一見普通の女子高生なのだが、話せば話すほどおかしなネタが、いくらでも出てくる。するめのような女だと思う。噛めば噛むほど味が出る。しかもきわめて個性的な、代替えのきかない味が。
「なんでそんなバイト」
「あたしクワガタが好きでねえ。もうほんと、黒光りするボディとか、なんていうかあのノコギリのついた……」
 智恵子のクワガタ談義がはじまろうとしたその瞬間、私たちふたりのあいだに、高い声が割り込んだ。
「智恵」
 美術室のドアの外から、体を半分だけ見せてのぞき込んでいるのは、同じクラスの赤池きょう香だった。あまり短くないスカートから覗く頼りなげな細い足。学校指定のソックスはきちんと三つ折りで、真っ黒で長い髪はいつも同じ形の三つ編みに結われている。クラスは同じでも、あまり縁のないタイプの生徒だ。
「あれ、きょう香」
 クラリネットを片手に、彼女は美術室に入ってきた。
「ブラバン、きょうは六時には終わるみたいなの。……それまでいる?」
「多分」
「そうしたら一緒に帰れる? ちょっと困ったことになっちゃって」
「どうしたの?」
 赤池きょう香は智恵子の幼なじみだ。彼女はブラスバンド部で、音楽室と美術室は隣り合っているので、こうしてよく姿を見せる。
 私は智恵子のことは好きだが、赤池きょう香のことは特に好きでも何でもない。取り立てて特徴のない普通の、おとなしい、目立たない子だ。いるのかいないのかわからない、人畜無害だからいじめられはしないが、彼女を必要とする個人もグループもない。班決めなどをするときにいつもあぶれて右往左往する、けれどだからといって嫌われているわけですらない、そんなつまらない子だった。
「こないだブラバンの県内大会があってね、そこで知り合った男子校の子が、しょっちゅう電話してきたりとかしてて。今日も学校に迎えに来るって言うのね、わたしふたりで帰るのとかやなんだけど……」
「いいよ、待ってる。六時に校門でいい?」
「うん、ありがと、智恵。じゃああとでね」
 赤池きょう香は、気弱げに微笑んで去っていった。
「……ふたりで帰るのやなら、そう言えばいいじゃん」
 その後ろ姿を見送る智恵子の後ろ姿に、私は言った。
「だめなんだよね、あの子、ああいうの。断れないし」
「断れないならそれなりに責任取れば。自分で痛い目見ればいいんじゃないの。智恵子、赤池に甘すぎない?」
「そうなんだ、甘いんだよねえ。小さい頃からこうなもんだから、きょう香に頼まれると断れないんだあ」
「ふうん」
 何ができるわけでもない彼女が、智恵子のそばにいつもいるというそのことに、納得の行かない思いがあった。近頃、赤池きょう香のことを、私は積極的に嫌っているかも知れない。
「仲いいのね」
「うん、小学校はいる前からのつきあいだから」
「それだけの理由で、こんなに長い間友達なの?」
「そうみたい。気が合うとか合わないとか、そういうふうにひとを選ぶようになる前から、いっしょにいたからね」
 努力せずにつかんだ幸運を、当然のように享受する、その姿勢がきっと私は嫌いなのだ。
 智恵子に私は価値を認めていた。その智恵子が私を受け容れてくれた。それはまるで、勲章をもらったようにうれしかった。
 私は、先程の赤池きょう香のように、自分の手に負いきれない出来事の始末を、他人の手に委ねたことなどない。目の前で起こったすべてのことに、全力で対してきたし、安楽な道へと逃げることなどゆるさなかった。
 そんな私だからこそ、私が魅力を感じた相手に、私が受け容れてもらえるのだと思っていた。
「洋子はきょう香が嫌い?」
 唐突に智恵子が言った。
「え?」
 私は思わず智恵子の顔を見返した。智恵子は探るような顔をして私を見ていた。
「……」
 智恵子の顔を見れば、返して欲しい答えはわかった。否定をして欲しいのだ。
「彼女のこと大切にしてるんだね」
「……ああいう子だから。心配はしてる。保護者みたいに」
 どこか硬い声で、智恵子は答えた。私ときょう香が敵対するのなら、多分智恵子はきょう香の味方をするのだろう。嫌いじゃないよ、好きだよ。そう言えばいいことが、私にはわかっていた。智恵子のためではなく、私のために。私に負の感情を抱かせないために。もっと極端に言うならば、智恵子に私を嫌わせないためには、その答えが正解だ。
 けれど私は私のための嘘はつかないことに決めていた。
「好きじゃない」
「なんで」
「弱いから」
「弱いことは罪悪?」
「……」
 短い沈黙が、ふたりのあいだに降りた。胸がどきどきした。答え方を間違えれば。智恵子が望んでないことを私が言ったなら、智恵子は私を嫌うかも知れない。心にもないことをいうのなんて、ほんとうは簡単だ。
 やっぱり今からでも遅くない、智恵子の望む答えを提示して見せようか。
 そう、心が揺らぎかけたけれど、それでも私は踏みとどまった。
「違う。そうは言わない。ただ相容れない。だって私は弱いままでいたくないから」
「……そっか」
 智恵子がちょっと残念そうに笑った。
「それはわかるよ」
 きゅっと、長い髪を後ろでまとめて、智恵子はゴムでしばった。
「あたしもがんばろうかな。あんまり怠けると、洋子に嫌われちゃう」
 キャンバスに向かう、おだやかな智恵子の横顔を見て、私はほっと胸をなで下ろした。
「きらわないよ」
「そう?」
 よかった。そう、私は思った。



 陽が落ちて数時間経っているというのに、その日はやたら暑かった。
 クーラーがない自分の部屋に嫌気がさして、私は家を出た。夜遊びをしようにも、こんな時間から都内に出たら、今日のうちには帰って来れないだろう。
 最近受験勉強で足が遠のいていた、地元のバーに足がむいた。
 駅前の繁華街を抜けて、地下への階段を下りた。扉を開けると、ループする重低音が響いてくる。中に入って店内を見回すと、カウンターによく知った後ろ姿があった。
「智恵子」
 驚いて声をかけると、智恵子とその隣に座っていた、細い肩の男がふり向いた。
「えっ洋子。わーびっくりした!」
 智恵子の隣の席は空いていなかった。仕方なく私は、智恵子の連れだと思われる男性の隣に腰掛けた。
「なにやってるの未成年」
 しかも男連れで。そう思ったが、その言葉は飲み込んだ。
「そっちだってそうでしょ」
「だってあたしは保護者つきだもん。これ兄貴」
 智恵子は隣の彼を指さして言った。
「ええっ、智恵子のお兄さん?」
「はじめまして」
 智恵子に紹介されて、彼女の兄が、少し笑顔を見せた。あまり智恵子には似ていなかったが、よくよく見れば、くちもとが似ているような気はした。
 智恵子の兄は、孝史と名乗った。私はジントニックを頼んだ。飲み物はすぐに来た。私はジントニックを舐めながら、智恵子と孝史と、どうでもいい、他愛のないことを話した。私が人見知りをする方なので、二言三言交わして、孝史が同じタイプだということはすぐにわかった。が、智恵子が気を利かせるのと、酒の力も手伝ってか、話が途切れるようなことはなかった。
 私は孝史の手を眺めていた。煙草を挟んだ、指が長くて細い。きれいな手だった。男の人のものではないような。
「どうしたの、じっと見て」
「え」
 智恵子に言われて、私は我に返った。
「もしかして洋子、兄貴好み?」
「何言ってるの」
 私は少し慌てた。好みだとかそんなこと、会ってこんなにすぐわかるわけがない。
 けれどそんなふうに言われたら、気になってしまう。彼はきれいな顔をしていた。ちょっと女顔かも知れない。長い前髪が少し表情を隠している。生命力の薄そうな、繊細な印象。
 確かに、素敵に見えないわけではなかった。
「だめだよ兄貴は、長い間つきあってた彼女と別れたばかりなんだから」
 私は、ぱちりとまばたきをした。
「智恵子」
 彼はかすかに笑いながら、智恵子の言葉を遮った。けれど智恵子は気にしなかった。
「傷心なんだよね」
 智恵子のその言葉は、私のこころをぎゅっとつかんだ。
 傷心。
 孝史の、脱色した前髪から覗く瞳が、こどもみたいだったからかもしれない。
 だいじにしてあげたい。
 そんな、今まで抱いたことのない不思議な欲望が、私を支配した。
 じっとしていられないくらい、どきどきした。
「僕の話はいいよ、智恵子」
「そう?」
「でもあいだに僕がいると話がしにくいね。場所変わろうか?」
「えっ、なんで?!」
 思わず私は声をあげてしまった。そしてすぐに正気に返って、慌てて口を押さえたが、後の祭りだった。
 びっくりしたように、智恵子と孝史が私を見ていた。かあっと頬が熱くなった。
「……洋子?」
 私はなにかフォローをしようと思ったのだが、頭が真っ白になってしまい、何も言葉が出てこない。
「どうしたの、洋子」
 智恵子が立ち上がって、私の顔をのぞき込んだ。
「洋……」
 そして、私を見た智恵子は、一瞬黙ったあと大爆笑した。
「ちょっ、ちょっとまってよ、本気?」
「なによ! 本気って何が……」
「やだ、洋子真っ赤だってば。なんて顔してるの」
 智恵子が笑い転げて私に抱きついた。そして私と、彼女の兄の顔を交互に見て、言った。
「洋子、兄貴のこと好きでしょ?」
「そ、そんなのわからないよ、だって会ったばかりじゃない!」
「関係ないよ。一目惚れってあるし」
「そんな……!」
 一目惚れ?
 智恵子のそのことばを反芻するうち、私はほんとうに混乱してしまった。何がなんだかわからない。けれど、こんなのは初めてだった。
「わかった。あたしはもう帰る。だから洋子は兄貴といろいろ話して、親交を深めてちょうだい」
「えっ、そんな、智恵子」
 私と同じく、突然のことの成り行きに慌てた孝史が智恵子を止めようとしたが、智恵子はバッグを肩にかけて、もうすっかり帰り支度をしていた。
「いいからふたりでじっくりお話ししなさい。あとでどうなったか教えてね。おやすみ」
「智恵子!」
 止めようとする私たちをおいて、智恵子はほんとうに帰ってしまった。
 呆然と智恵子の出ていった方を見ていた私のとなりで、がた、と音を立てて、孝史が座り直した。
「ええと……」
 長い前髪の下の目が、私を見上げていた。
「とりあえず、座る?」
 彼が言った。
「う、うん」
 確かにこうして立っていても仕方がない。私は椅子に腰を下ろした。
「……乾杯、しようか」
 孝史が、半分以下に減ったコロナビールの瓶を、少し持ち上げた。
「うん……」
 私も、殆ど残っていないジントニックのグラスを、彼に向かって少し傾けた。



 クリームソーダなんていうものを、こんなに間近に見たのは十年ぶりくらいのような気がする。その泡を私は眺めていた。
「びっくりしたよ」
 智恵子と、偶然夜にバーで会ってから二週間経った。もうすぐ夏休みも終わる。
「あんな洋子、はじめて見たもん」
「私だってびっくりしたよ」
 智恵子がクリームソーダのアイスを、スプーンの先で削り取って舐める。ソーダの中で押されたアイスが、炭酸にとけて、白い泡をむくむくわかせた。
 そのスプーンを持つ手が、彼女の兄の手を思い出させる。
 あれから何度も、孝史とふたりで会った。
 私の方が夏休みだったのが幸いした。否、それは幸いなのかはわからない。私は受験生で、映画を見に行っている場合でも、手を繋いでショッピングをしている場合でもないはずだった。
 けれど私は毎日のように、孝史の顔を見ていた。
 孝史もちょうどバイトをやめたばかりだったので、その気になれば、私たちにはふたりのために作れる時間がたくさんあった。
「一目惚れなんて、私、そんなの嘘だってずっと思ってた」
「あたしはそういうことがあるのを知ってたけれどね」
「そっか……」
 アイスティーのストローをくわえて、私は窓の外の、空にもくもくとかかっている入道雲を見上げた。
「兄貴、ダメ男だよ。いい年して、霞ばかり食べてるような」
「そうかなあ」
「兄貴のギター、聞かされた?」
 私はうなずいた。
 聞かされた、というわけではなくて。聞きたくて聞かせてもらったのだけれど。
「ギターで飯食おう、だなんて言ってるような男。ほんとうはダメよ」
「でもうまくいくかも知れないじゃない。孝史さんギター上手だもん」
「あいつは弱いから向いてないと思うな。そういう世界は」
「……そんなことないと思うよ」
 男の人が弱かったりかわいかったりするのを、わたしは初めて知った。
 彼らはみんな、強くて山のように動じない生き物だと思っていた。ドラマやまんがに出てくるような。ヒーローなんだと思っていた。けれどそうではない、期待を裏切るそのデリケートさが、私を恋に夢中にさせていた。
 私がそこにいる価値があるのだと、その所為で思えるのだ。
 彼は私に夢を語る。
 僕はこのギターひとつ抱えて生きてゆくんだと。
 いつかこの腕ひとつで、かがやく未来を手に入れるんだと。
 それと同じ口で、前の恋人のことを語る。
 長く続いた三角関係の末に、彼女を取られてしまったこと。その痛みを、私に語る。
 私はそのきずを癒すことを夢に見る。それは甘い、甘い夢だ。
 私の手が彼を救うことを望む、それは彼がプロミュージシャンになるんだと目をきらきらさせて言う、そのことと何ら変わりない。
「でもおもしろいね。洋子がそんなふうになるなんて」
「おもしろくないよう」
「きょう香にその話したら、びっくりしてた」
 きょう香。その名前が出て、私は返事をする変わりに、ふんと鼻を鳴らした。びっくりされるほど彼女と私は知り合ってなどいない。
「赤池はどうなの、その後、あのブラスバンドの彼氏は」
「夏休みは部活も校外と合同とか多いみたいで。よく会うんだって。面倒だって言ってた」
「ふーん」
「文化祭も近づいてくるしね。大変だよ」
「そういえば文化祭の絵、できそうなの?」
 私が訊ねると、ふふんと智恵子が笑った。
「できそうさ。しかも傑作が!」
「そりゃ楽しみだ」
 私も笑った。智恵子がそう言うくらいなのだから、それは確かに傑作なのだろう。
「……あ、そうだ。兄貴、前の彼女の話してた?」
「うん」
「本気で兄貴とつきあうんだったら、元カノには気を付けて。ずいぶん長かったからね……」
 私はうなずいた。孝史の口から出る話題に、前の彼女の出てくる割合が多いことには気付いていた。仕方がない、そう思うことにしようとはしていた。何しろ共に過ごした年月が違うのだから。
 けれどそれはそれとして、さすがに本人には聞きかねる、けれど知りたいことがあった。
「ねえ、……孝史さんと前の彼女、なんで別れたの」
「別れた理由?」
「うん」
「……そうだねえ、いろいろあるけれど。私は、前の彼女が、女だったからじゃないかなって思う」
「女だったから?」
 智恵子の言った意味がわからず、私は首をひねった。それを言うなら私だって当然女だし、彼女というからには女に決まっているじゃないか。
「なんていうか、女だから、兄貴ほどには夢を見れなかったんじゃないのかな。兄貴、ミュージシャンになるんだって言ってるでしょ。ああいうの。きっと互いに若い頃は夢があっていいって考えられたんだと思うけれど、だんだんそれではいっしょにいられなくなるんじゃない? 将来もいっしょにって考えたなら、生活は夢でもなんでもないのに、けれど兄貴は夢に頼ってしか生きてない。不安を覚える。どうしようって思うよね。……女はいつでも、どんな夢を見ていても、現実に足がついている生き物だから」
「……私はいいと思うのに。孝史さんのそういうところ、好きだよ。なんの夢も持ってない、ただサラリーマンになって働いて家を建ててって。そんなふうにしか考えられないひととなんていっしょにいたいと思わないよ」
 私がそう言うと、智恵子は、そうだね、とうなずいた。
「もしそうなら、そう思っているなら、その間はいっしょにいられるんじゃないのかな」
 その間は。
 そう智恵子は言った。
 未来を否定するようなその言い方に、私は少し引っかかりを覚えたが、けれど智恵子の言っていることが全然わからないわけではなかったので、私も曖昧にうなずいて、アイスティーを飲んだ。



 新学期がはじまると、さすがにのんびりした公立の女子校でも、受験、受験で殺気立ってくる。そんな中、私は突如取り残されたように、他の人々とは別の方向をむいていた。
 彼は暇らしく、私の学校が終わる時間に、大体近くまで迎えに来てくれる。
 私はそんなふうに、孝史との時間が持てるのがうれしかったけれど、それでもたまに、心配になることはある。
「働かなくていいの?」
 私がそう言うと、孝史は長い前髪の下から目を上げた。
「うん、探してはいるんだけど。なかなか見つからなくて。今度は、ちゃんと未来に繋がるような仕事がしたいから、じっくり探そうと思って」
「未来に繋がるような?」
「うん、やっぱりどんなに条件が厳しくてもいいから、ギター弾いてお金もらえるのがいいなと思ってさ」
「そうだねえ」
 孝史の指には、たくさんの指輪が填っている。大体がシルバーの、ごついやつばかり。それは繊細なイメージの彼には、実は似合わない。指輪負けしている。しかも彼は、ギターを弾くたびに、邪魔だからという理由でその指輪を外すのだ。それならはじめからしなければいいのにと私は言ったけれど、ロックっぽくてかっこいい、という理由で、彼は後生大事に、両手で計七本の指に指輪を填めていた。
 ちなみに、左手の薬指は現在のところあいているが、その指にいまだに、うっすらと、細い指輪のあとが陽に焼け残っている。
 もやしのように、日に当たるイメージなどない彼だけれど、そんな彼の指にすら、陽焼け残しのあとが残るくらいの長い年月、外されることのない指輪が填められていたのだろう。
 こんど、新しい指輪をプレゼントしてみようかな、と私は幾度か考えたが、他の指に填められたらどうしよう、または、受け取ってすらもらえなかったらどうしようと、そんなことをばかり考えてしまい、いまだにあげられずにいる。
 一応は、ちゃんとした、彼女、なのだけれど。
 そんなことを考えているうちに、気づけば孝史の家のすぐ近くまで来ていた。
「ねえ」
 勇気を出して私は孝史に聞いてみようとした、そのときだった。
 突然孝史が足を止めた。孝史の住むアパートの階段の、前に。
 見たことのない女の人がいた。
 特別にきれいでも不美人でもない、派手でも地味でもない、どこにでもいるような女だった。
「……孝史」
 その声だけが普通に彼を呼ぶ声ではなくて。
 深い、とうてい私には窺い知れない感情の、込められた声だった。


「ごめん。ほんとーーーに、ごめん」
 例のバーで。
 智恵子と久しぶりに飲んでいた。
「別にぃ。智恵子に謝られる筋合いのことじゃないし」
 珍しく私はショートカクテルなどを飲んでいて。智恵子は好物の、けれど口もつけていないコロナビールを前に、私に平謝りしている。
「もう本当に兄貴のダメっぷりにはあたしも愛想が尽きたよ……」
 そう言うと、智恵子は机に突っ伏してしまった。
「いやもうなんていうか仕方ないね……」
 せめて少ないお小遣いをはたいて指輪を買う前でよかったよ。と、私は自分で自分をなぐさめていた。
 私はぐいっとドライマティーニの残りを一気に飲み干した。さすがに軽く酔いが回ってきた。未成年そして受験生とはいえ、失恋のやけ酒くらいは許されよう。
 智恵子はもういいと言っているのに、ただただひたすら謝っている。なんだか自分のことでもないのに謝り続ける智恵子が可哀想になり、私は話題を変えることにした。
「それはそうとさあ。智恵子は男関係はどうなのよ」
 テーブルに肘をついて私は何とはなしに訊ねた。そう言えば智恵子から恋愛の話一般を聞いたことがなかったと思ったのだ。
「ん、あたし?」
 やっとまともに顔を上げた智恵子は、コロナにライムを搾りながら、平然と答えた。
「実はあたしは女のほうが」
 智恵子の答えを正確に理解するのに数秒かかった。
「……マジ!?」
「大声出すなよぅ、洋子」
 ちょっと照れたように智恵子が言った。
 女子高生マニアだとは知っていたけれどまさか本気だとは思わなかった。そして私は嫌なことを考えた。赤池にだけあんなに甘い顔を見せるのはまさかまさか。
「まさかあんた赤池のことが好きだとか!?」
「いやそれはさすがに」
 智恵子は即答で否定した。
「あっそう……」
 安堵の溜息をつき、私はそういえば昼間赤池と例の彼を見たなと思い出していた。
「まだあの男につきまとわれてるよ、赤池」
「しょうがないなぁ、あの子も」
 智恵子が苦笑する。
「でさぁ。智恵子はどんな娘が好きなわけよ」
「んー、実はE組の鏑木理美が」
 本気で照れた顔をしながら、智恵子が挙げたのは、我が校一の才媛美女。
 なんというか。智恵子のその性癖に多少驚きはしたけれど、安心した。
「トップレベルだな、趣味はいいんだ」
「ん?」
 グラスの下に沈んだオリーブを人差し指でつつきながら、私は宙を見上げて溜息をついた。
「なんかいいやそれなら納得できるから」
 自分がこいつだ、と認めた友達の人選が、自分の価値観にも合うものであることはうれしいものだ。そういうことを私は思っての言葉だったのだけれど、智恵子は何かを誤解したらしい。
「なんだ、洋子実は私のことが好きだったの?」
「いや、そういうことじゃなくて」



 二日酔いの頭を抱えながらもちゃんと学校には行き、授業もさぼらずに全部出た。
 恋にうつつを抜かしていた分を取り戻して、自分の未来を掴まなければ。女子高生も大変なのだ。
 放課後。校門を出てしばらく駅へ向かって歩いたところで、赤池と例の男が肩を並べて歩いているのを見た。コンビニの袋をぶら下げて、仲よさげに歩いていた。
「なんだ」
 いやだいやだとか智恵子に言っておいて。普通にしなを作って笑っているんじゃないか。楽しそうに。
 すれ違いざまに赤池と目があった。
「彼氏?」
 私は聞いた。するとぱっとしない男がぱっとした顔をして、対照的に赤池は困ったような顔を。
 私はその困った顔の意味がわかってしまって嫌な気分になる。
 相手の男は確かに彼氏として連れ歩くには自慢できるルックスはしていない。オタクっぽいし背も低いしなんだかでれでれしているし。彼氏かと聞かれて、そうなの、と胸を張って言えるような見てくれではない、それはわかる。
 けれど一緒にいて楽しそうな顔をしていただろう。
「一緒にいて楽しそうにしゃべって、そんなに仲良さそうに歩いてるのに。聞かれた途端そんな顔するな見栄っ張り」
 投げ捨てるようについ言ってしまったら、赤池が図星を突かれて痛そうな顔をしていた。

 
 塾に着くと智恵子がいた。智恵子は入ってきた私にも気づかない。無心に筆を走らせている。その横顔の印象がまっすぐで、強くかがやいていて。
 さっきの赤池のことを思い。そして目の前にある横顔を眺め、なにものにもゆるがされない価値観を持つ智恵子のことが私は改めて好きだなと思った。
 私がいることにやっと気づいて、智恵子が言う。
「ん? 洋子、どうしたの、あたしの顔に何かついてる?」
「ついてるねえ」
 智恵子は顔をごしごしこすっている。けれど別にこすったところで落ちるものがついているなんて私は言っていない。
「智恵子、私ねえ、強く生きることにした」
「は?」
 唐突な話の飛び方に、智恵子がきょとんとした。
 ふられた直後だけど私は強く、何にも負けずに生きるんだ。
 誰が私を傷つけようとしてもほんとうになんて傷つかない。
 きっと私をほんとうに傷つけることができるのは私だけだ、私は赤池のような嘘のつき方をしたらきっと自分を捨ててしまいたくなる、きっとそんな心をひきむしって投げて捨てて走ってどこかに逃げたくなる。
 だから私は負けないんだ。彼の彼女に負けたけれど私は負けないんだ。
 強い私はきれいに違いない、だからきっと誰かが私を好きになるに決まってる!
 どれくらい強く美しくかと言われたら、たとえば女好きの智恵子があの学年一の才媛を忘れて私に惚れてしまうくらいだ。
 そうだ、それを目標にしよう。
 あくまで目標に、だけど。


 ふふふ、と不敵に笑う私を、智恵子が気味悪そうに見ていた。








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