とりあえずそれを見かけたのは俺が放課後の職員室に委員会のプリントを取りに行くときだったと思う。
 がたん。ばたん。となんかがどこかにぶつかったような大きな音がした。
 それは俺の教室からだったので、あぁまたか、と俺は思った。教室を横目でのぞくとやっぱり想像通りで、クラスでいちばんどんくさくてオタクでうちの隣にこどもの頃から住んでるいじめられっ子の晃が、ヤンキー連中に突き飛ばされてよたよたとしりもちをついた音だった。
 あぁまたか。
 俺は口の中でちいさくつぶやくと、それ以上教室の中を見もせずにその場を去った。俺には関係のないことだ、と思った。
 それからプリントを持って委員会室に戻る途中に教室の中をちらとのぞいたらまだそれは続いていた。飽きない奴らだ、と俺は思い、同時に晃に対しても同様の感想を抱いた。それだけだった。晃が何故奴らに対し何の反撃もしないのかわからなかったし、ヤンキー連中が何故飽きもせず晃をいじめて喜んでいるのか全く理解できなかった。というよりはその理由を考えることなどはじめからあきらめていた。どうせそんなことがわかるわけないと思った。
 これを見かけたのが、たとえばやたらしち面倒くさいことが好きなうちのクラス委員とかだったら、正義漢っぷりを存分に発揮して晃を助けに入りもするだろうが、生憎と俺は日々平穏に生きていきたいだけの何の力もない普通の中学生だから。ここでむやみに首を突っ込んだりして、自分の身を危険にさらすようなことはごめんだと思った。ただなんだか腕に抱いたプリントの束が、少し重みを増したような、そんな錯覚があったので、俺は教室の前を足早に通り過ぎ、委員会室までの道のりを急いだ。
 そのあとで俺は晃に会った。東棟一階の玄関で。やたら重たいカバンを左手に持ち替えて、入学してから一度しかひもを交換していないスニーカーを自分の下駄箱から引っ張り出しているときだった。
「おうい、高彦」
 のそのそとその無駄に横にでかい体をゆすって晃が廊下を駆けてきた。
「今帰りかあ?」
 そう何事もなかったかのように言う晃のめがねは片方のレンズが半分しか残っておらず、制服も右腕が付け根から半分くらい破れてぶら下がっていた。
「すごい格好だな。それで家に帰るのか」
「ああー、お母ちゃんにまたおこられるなあ」
 喋りがとろくて俺は苛ついたが、晃は目を糸のように細くしてにこにこ笑っていた。俺は何で晃が笑うのかあまりよくわからなかった。こいつはなんとも思わないのだろうか。こんなふうにぼろぼろになって家に帰るのが嫌だとか、そういうことを思わないのだろうか。俺だったら嫌だ。学校に行ってそれでぼこぼこにされて制服まで破って、それでのこのこと家に帰るなんてそんなことは俺にはできない。こんなところを誰かに見られるのが恥ずかしくないのか。まるでゴミかオモチャのように扱われてますって、そんな自分を人に見られながら外を歩くのが恥ずかしくないのか?
 そんなことを考えているうちに、なんだかだんだん腹が立ってきた。しかし、俺に全然関係のないことでどうして俺が怒ったりしなくちゃいけないんだと、そんなことを考えているうちにますます頭に来た。
 もしかしたらこいつは他人を不快にさせる名人なのかも知れない。
 そう納得して俺は、さっきわずかに感じた憤り、怒り、その他のなんだかよくわからない感情については忘れることにした。
 そのときいきなり、背後からぱたぱたと身軽な足音が近づいてきた。
「お兄ちゃん!」
 肩まで伸びたふわふわ天然パーマの巻き毛をゆらして走ってきたのは、晃の二つ下の妹の美奈だった。
「美奈、今帰りか?一年生なのに遅いんだなあ」
 晃はまたもや、頬のたるんだ肉に隠れて糸みたいに細くなってしまう目をして笑った。
「帰りかじゃないわよ!どうしたのそのかっこう」
 兄貴には全く似ず、小柄できゃしゃで身の軽そうな、ちょうど子鹿のバンビみたいな印象の美奈が、自分よりもふた周りくらい大きな兄貴を見上げて、くるんとカールした長い睫毛の下の濡れたような大きな瞳で睨む。
「またなにかされたの?やられっぱなし?!どうしてお兄ちゃんはいつもいつも……」
「ごめんよう、美奈。兄ちゃんもいやだ、とは言ってるんだけどさあ」
「言ってるんだけど、じゃないわ!ああっもうっ頭に来る!」
 美奈が地団駄を踏んで悔しがるのを晃がまあまあとなだめにかかり、さらにその怒りに油を注いでいた。
 その光景を見て、俺はなんだか不思議な、不可解なものが胸の奥でぐるぐる回るのを感じていた。それがどんな感情なのか相変わらずわからなかったが、あまりうれしいたぐいの感情でないことだけはわかった。
「お兄ちゃん悔しいとか思わないの?!私は悔しいっ。もうっ!頭に来るなあっほんとうに!」
 目の端に微かに涙をためながらその怒りを兄に投げつける美奈を見ていると、どうにも胸の中央に穴があいたような、冷たい風が吹き抜けていくかのような、そんな感じがするので俺はその光景から目を背けた。


「ただいま」
 俺は鍵を開けて一応そう奥に向かって言ってみる。
 返る答えはなかった。
 誰かがいてもいなくても、返る返事がないことなどわかりきっているのに、何故俺はただいまなどと言ってしまったのかと、少し悔やんだ。
 電気の消えた廊下の突き当たり、台所のドアを開けると、もうすっかり暗くなり始めているのにやっぱり電気のついていない台所に母親が頬杖をついて座っていた。
 ただいま、ともう一度言おうとした俺の言葉を遮って、母親が先に口を開いた。
「父さんと母さんねえ、やっぱり別れることになりそう」
「……………あ、そなんだ」
 俺は答えた。
 近頃俺の家はずっともめ続けていて。おおもとの原因は父親の浮気で。父親は出来心だったんだといいわけをしたが、母親はそんなはずはないと言って怒り狂った。帰りが遅くなった日なんて、今日もその女のところへ行ったのねとかなんだとか言い始めて。テレビのドラマみたいでちょっと可笑しかった。あんなのブラウン管の中の出来事だと思っていたが案外リアルにほんとうのことだったらしい。
 おかげさまで定時きっかりに帰ってテレビ見ながらビール飲むことを生き甲斐としていた父親は最終電車でしか家に帰ってこなくなり、母親は秘かに夜中ににひとり起き出して父親の携帯の履歴をチェックしている。父親はそれに気づいて母親に文句を言ったみたいだけど、そうしたら母親は、「もう見ないわよ!」と薄っぺらくやけっぱちに叫んだだけだった。
 けれど今となってはやっぱりそれもどうでもいいことだった。両親が離婚するかも知れない瀬戸際に、それでも俺はあまり悲しいとかそういうことは思わなかった。ただ考えるのが面倒に思えた。
「どうする?あんた父さんと行く?母さんと来る?」
「どっちでもいいよ別に俺は」
「高彦が決めてくれないと母さん達も困るよ。どうしたいのか高彦が決めてよ」
「だから俺はほんとうにどっちでもいいんだって。父さんと母さんで決めてよ。そしたら俺言うとおりにするからさ」
「……そう」
 母親は陰鬱な顔で黙り込んだ。
 暗かった。
 台所が暗いのは電気がついてないせいだけではないなと俺は思った。
「それよりさ、俺、おなかすいたんだけど」
「ああ……そういえばそんな時間だね。戸棚のところから千円もってっていいよ」
「わかった」
 千円もってよそで飯を食え、と。そういうことである。
 少し前までは、母親が毎日飯を作って家族三人食卓を囲んだりもしたものだったけどもうそれは忘れるほど彼方の出来事だ。よく考えるとそれからまだほんの半年も経っていないけれど、それでも遠い昔のお話だ。その遠さたるや、地球からM78星雲に行けてしまうほどの距離くらいはゆうにありそうだ。
 俺は言われたとおり戸棚から千円札とついでに500円貯金箱を逆さに振って一枚抜き取り外へ出た。この500円貯金は家族旅行基金だったのだけど、もうこの先使われる予定はないだろう、多分。
 歩いているうちに、俺はむしょうにカキフライが食べたくなった。たどり着いた近所の定食屋のカウンターに座って、エプロンのおばちゃんにカキフライを注文した。ついでにビールも。もちろんビールなんて飲める歳であるはずないが、顔見知りの定食屋のおばちゃんは冷えた瓶ビールとグラスを、はい、と出してくれた。
「寒いのにビールかい?未成年が」
「ああ。この一杯のために生きてるんだよ俺は」
 昔の父親のせりふをふと思い出してそんなことを言ってみた。そしたらおばちゃんに笑われた。
「なあに生意気なこと言ってるんだか」
 そうしているうちに、どんぶりに大盛りの湯気立ち上るライスと、カキフライとキャベツがのっかった皿が俺に目の前に置かれた。
「いただきます」
 俺は何となく癖でちいさくそう言ってしまった。口の中に放り込んだカキフライは決して不味くはなかったが、すこしべちゃっとしていた。
 カキフライは俺と父親が好物で。昔うちが何の問題のない家庭だった時代は、二週間に一度は必ずカキフライだった。母親の実家の方の料理らしい赤出汁のみそ汁と、衣がさくっと口の中で崩れるカキフライの味が不意になつかしくなった。
 なんだか。さっきの、美奈と晃のやりとりを見ていたときに感じたものと同じようなものが、胸の中を吹き抜けた、ような、気がした。



 帰り道。
 月を見上げて歩いていた俺を呼ぶ声がして、足を止めると、そこには晃がいた。
「高彦、こんなところで会うなんて奇遇だなー」
 公園のブランコに座ってにこにこと晃が手招きをしていた。
「……おまえ、何してんの?」
「母ちゃんに怒られちゃってさ、怖いからちょっと怒りが収まるまで外にいようかと思ってなあ」
 糸の目で晃が言った。
「そんなとこ立ってないでさ、こっち来いよ高彦」
 隣のブランコを指し示して晃が言うので、俺はこの年になってブランコも何もあるかと思いながらもその指示に従ってブランコに腰を下ろした。
「なあなあ高彦、ドラクエ終わったか?」
「とっくにクリアしたよ」
「それじゃあさ、移民のまちって作ったか?」
「作ったよ」
「そのデータさあ、貸してくれないかなあ。なんかコピペみたいにして移民をたくさん増やせるらしいんだよー。メモリーカードあると」
「え、そんなことできるのか?」
「できるんだよー」
 学年一オタクの名に違わず晃はゲームとかアニメが大好きだ。マニアックなアニメとかになるとさすがに話題についていくのが困るが、ドラクエくらいなら俺もやっていた。
 共通の話題を見つけたせいで話が弾んで、俺は昔を思い出した。俺達は家が隣同士だったこともあって、ガキの頃は結構仲が良かった。美奈の面倒を見ながら、日が暮れるまで毎日飽きずに遊んだ。
「移民の町って自分で好きな名前つけられるだろ?なんてつけた?」
 俺がそう聞くと、晃はうれしそうに答えた。
「熱海」
「熱海?!」
「そうそう、だって『晃の町』とかじゃあんまりおもしろくないだろ?どうせ作るんだったらいい町がいいとおもったからさ、熱海」
「なんだそりゃ。すっげばかみてー!なんかもっと他にいいのなかったのかよ!」
「高彦熱海嫌いなのか?熱海はいいぞ、温泉だぞ。昔の人たちが新婚旅行でいくようなところなんだよ」
「そういうもんだいじゃねーよそれ!」
 俺は笑った。この話がそんなにおかしいことなのかどうかわからなかったがなんだか笑ってみたかった。
 晃も笑った。
 俺は、どうでもいいことで笑えるのが、昔みたいで楽しいな、と思った。
 そのとき。
「お兄ちゃん!」
 かわいらしい高い声が俺と晃の間にできた、仲間膜、みたいなものを突き破って入ってきた。
「美奈」
「もうお母さん怒ってないよ、テレビ見て笑ってるから返ってきて平気!」
「そうかー、ありがとう美奈」
 俺と晃の間にあった目に見えない流れみたいなものが、今度はその会話で俺をはずして美奈と晃のものになってしまっていた。ぼんやりとたたずむ俺に、美奈が声を上げた。
「あれ、高ちゃんも一緒?」
「あ、ああ。飯食った帰りにちょうどここ通ったらこいつがいたから」
「そなんだ、またたまには遊びに来てね」
 美奈は、うちの男子学生どもに我が校一と言われているその美貌で俺に微笑んだ。確かにめちゃくちゃ可愛くなっていたんだと俺は思い、昔はただのガキだったのになこいつも、と心の中でつぶやいた。
「じゃあまた、学校でな」
 晃がのそのそと立ち上がり手を振った。
「ああ」
 俺も手をふりかえした。
 美奈と晃が肩を並べて去っていく。
 俺はひとり、そこに残された。
 ──だれもいない。
 と、俺は、不意にそんなことを思った。
 言葉の意味をよく考えたわけではなかった。
 突然、その一文が、頭に浮かんだのだ。
「だれもいない」
 なにげなく口に出して言ってみた。途端。
 俺は嵐のように後悔した。
 さっきからほつれてこぼれはじめていた記憶が突然奔流のように渦を巻いて俺に襲いかかった。
 カキフライと晃と親父と母親と美奈とが全部数珠をつないだみたいにひとつの線になった。
 今はもうここには残っていないもの、という共通点。
 かつて愛していたはずのもの、という共通点。
 それらのすべてに対して俺は関係がないと言い続けていたことに気がついた。
 ……まわる。
 輪廻のようにまわるマイナスの想念。
 かなしみがめぐる。
 ひとかけらの幸福ももたらしはしないかなしみがめぐる。
 晃を助けない俺。
 いいわけをあきらめてしまった父親。
 自分の夫の携帯の履歴をチェックする母親。
 あきらめてしまった俺。
 何もかもあきらめて。
 信じることも戦うことも忘れてあきらめ果てた俺はつぶやく。
 関係ない、と。
 呪文のように。その言葉を口にするたび。
 俺は世界から遠ざかる。
 離れてゆく。取り返しのつかない距離を。
 世界のすべてがいつの間にか俺とは無関係だ。

「関係ない」

 この上なく言い慣れた言葉を、
 つぶやいた途端。
 視界が、歪んだ。


 二日連続して委員会の仕事に捕まって、返る頃にはもう道も暗くなっていた。なのにこんな時間に、目の前を知っている背中が歩いていたので俺は少し驚いて声をかけた。
「美奈?」
 美奈が振り向き、あれっ、という顔をしたあと、笑った。
「高ちゃん、遅いねえ今日も」
「ああ、委員会でつかまってさ。美奈は何でこんな遅いの?」
「私はね、部活。テニス部」
 言われてみれば美奈のバッグから、テニスラケットの柄のようなものが出ていた。似合いだな、と思った。美奈とテニス。
「美奈は強いのか?」
「うーん、まだ一年だから先輩の方がずっと上手で、試合とかには出してもらえないよ。でも来年は絶対出るよ!」
「そしたら応援に行くよ」
 晃と一緒に。
 そう言おうとしたとき。前を歩いていた美奈が突然、足を止めた。
「美奈?」
 俺は突如立ち止まった美奈に軽くぶつかってしまい、悪りぃ、とあやまろうとして美奈の視線の先を見た。
 それはちょうど、昨日俺が教室で見たのと同じような光景の、ちょっとエスカレートした版、だった。
 俺と同じ制服を着た野郎が5人、丸まってうずくまっている晃を踏んだり蹴り飛ばしたりしていた。
「お兄ちゃん!」
 俺がそれについて何かを思う前に、美奈の声が耳に響いた。
 と同時に、テニスラケットが入ったバッグを投げ捨てて美奈が晃と5人組ヤンキーの間に入っていった。
 バカ、待て、と止めようとした俺の手は駆けだした美奈に届かなかった。
「お兄ちゃんに何するのよ!」
「なんだおまえ、こいつの妹?」
「全然似てねえな。すっげ可愛いじゃん」
 5人組のうちの、品のない金髪を肩まで伸ばした奴が美奈の顎に手をかけた。
「へぇこんなの蹴ってるうち可愛いのが出てくるなんて、そりゃラッキー」
 あ。と俺は思った。美奈が悲鳴を上げた。
 金髪野郎が美奈のブレザーのボタンを一瞬で引きちぎってブラウスを掴んで捲り上げた。白い肌と胸元のレースが見えた。途端。
 ぷつん。と。何か音がしたような気がした。
 思考を支える線のいちばん太い奴が、ピアノ線が切れるみたいに、音を立てた。ついでに脳味噌が熱くなったからもしかして沸騰したんじゃないかと思った。
 いきなり何がなんだかわからなくなっていた。
 突然俺は、うおお、だか、わああ、だか、よくわからない奇声を上げてこぶしを振り上げて、頭からは金髪生えてるくせに眉毛が黒々とした汚い顔をぶん殴ったあと美奈のブラウスを掴んでいる手に噛みついて引き剥がし地面にたたきつけて何度も、何度も全体重を乗せかかとを落として踏みにじった。
 その俺の頭に、ごん、と衝撃が来た。殴った手の主の鼻めがけて俺はこぶしを打ち付けた。五寸釘を打つような要領ってこれかよ、と思った。
 そして。
 気づいたら、驚いたことに。
 ほんとうに驚いたことに、なんと俺はそこにいた5人の野郎どもを伸してしまっていた。
「……まじかい」
 思わず自分でつっこみを入れようとつぶやいた。が前歯が二本ともなくなっていたせいで、まひかい。としか聞こえなかった。
 まんがかテレビのヒーローでもこうはいくまい、と俺は思ったがそういえば人間様には火事場の馬鹿力とかそういうものもあるんだったっけなと少し納得した。
 もうとっぷり日は暮れてしまい、ここは街灯もないのでほんとうに真っ暗で、俺は美奈の顔も晃の顔も良くは見えなかった。暗いだけじゃなくて、コンタクトもどっちか落としているかも知れない。
 でも俺はなんだか美奈と晃がどんな顔をしているかわかるような気がした。錯覚かも知れないけど、なんだかわかるような気がした。
 不思議とこの事態に関して後の報復のことは怖くなかった。
 あのまま永遠にあらゆることから俺が逃げ続けていたら、と考えることの方がよっぽど怖かった。
「……痛い?」
 美奈が心配そうな声を出した。テクニックで出せる声じゃなくて。ほんとうに俺を心配している声だとわかった。
 可愛いなあ。と思った。
「俺、おまえ達、好きだわ」
「高ちゃん?」
 俺はとりあえずいちばん言いたいことは忘れる前に言っておかなければいけないと思ったのでそれだけ言うと、転がっていた自分のカバンを拾って家へ向かい駆けだした。
 なにか吹っ切れたような。突然背を押す風が吹き始めたかのような。不思議なエネルギーが俺を家へと走らせた。
 鍵を開けるのももどかしくがらがらと扉を開けると、玄関には母さんのサンダルと、何故こんな時間にいるのかわからかったけどとにかくそこには父さんの靴もあった。
「父さん母さんいるのか!」
 玄関の扉を閉めてないことに気づいていたが閉める時間がもったいなかった。いつも通り薄暗い廊下、その突き当たりの台所の扉から漏れる光。
「高彦?!」
 ぼろぼろでしかも前歯が折れている息子の騒がしい帰還に、台所で向かい合って座っていた父さんと母さんは驚いて声も出ない様子だった。けどいい、別にいい。なんでもいい。よく今ここにふたりがいてくれた。ナイスタイミングってほんとうにあるんだな。神様ありがとう。
 さっき天啓ひらめくみたいに突然思い出したんだけど。俺は、間に合わなくなる前に言わなければいけなかったんだ。
「父さん、母さん、離婚なんてするな!俺はいやだ、絶対絶対絶対にいやだからな!」
 叫んだら突然ぼろぼろ目から涙がこぼれた。
「俺はいやだ、いやだいやだ絶対にいやだ、しないって言え!離婚なんてしないって言ってくれ頼むから!俺何でもするから!毎日肩たたいてやる、花に水もやる、食器も洗うし料理もする、雨が降ったら駅まで傘もって迎えに行ってやるよだから頼むよ、なあ!」
 失われていきつつあるものをとどめるために、俺は必死に叫んだ。
 俺が持ってるはずのすべての力を、さっき美奈と晃を守ろうと思ってぶん殴ったあのときの力みたいなものも全部詰め込んで俺は叫んだ。
 どうしてもっと早く気づかなかったのか。
 関係ないはずがないだろう。
 これが、俺を形作るすべてなのに。
 俺はぎゅっと右手を握った。込めすぎた力でふるえるくらいに、強く、握った。
 握りこんだ力、それは祈る力だった。
 俺は祈っていたんだ。
 ずっと。
 今だけじゃなくて。
 きずつくのを怖れて、関係ない、と繰り返して言いながら。
 心の底でいつだって、祈っていたんだ。
 いつか暗闇の夜が、あけるようにと。
「父さんはもう浮気なんてしてない、父さんの言うとおりあれは一回だけの出来心だった。母さんだってそうだ夜中に起き出して父さんの携帯をチェックしたりそんなことはもうしないだろう、二度としない、そうだろう!?誰がそれは違うっていっても俺は信じるぞ、だって父さんと母さんはそう言っただろう。口に出していっただろう。誰もが疑い続けてそのまま終わるのか、永遠に廻るのか。違うだろう誰かが破らなければいけないんだ、終わらないんだ。だから俺が信じてやる。俺が絶対に信じてやる!あんた達の言うことを、ひとつ残らず、すべて、信じてやる!」
 打破する力はここにある。俺はやっとそのことがわかった。
 この自分の中にその力があることに、やっとやっと気づいた。
 真実がどうあるか、そのことから目を背けることをせずそれでもなお、どれほどに困難でも、信じることだ。
 裏切られることなんてみじんも怖れずに。そんなことはありえないと、無防備に胸を張って。
「……高彦」
 ずっと黙っていた父さんが、椅子を引いて立ち上がった。
 とうさん、と俺が言おうとしたら。
 頭からぎゅっと抱きしめられた。
 あちこち殴られてずいぶんけがをしていたので、痛い、と言いそうになったけれど俺は我慢した。
 父さんは何も言わなかったけれど、俺は俺を抱きしめているその腕から流れてきた、目に見えないなにかが伝えようとしていることがちゃんとわかった。
 そして父さんの腕の隙間から母さんの顔を見たら、母さん泣いていた。思えば、父さんといくら言い争っても母さんは泣かなかったな。どんよりどうしようもなく暗くなってても。泣いてなかったんだ、母さん。

 そっか。



 カバンは相変わらず重いし、入学してから一度しか交換してない靴のひもが切れそうなのも全然変わらない。
 だけどなんだか空が青くて青くてきれいに見えるのが不思議だった。
 ああでもそういえばカバンはこないだまでよりは少し重くなったはずだ。母さんの作った弁当の分。
「高彦ー」
 聞き慣れた声が追いかけてくるので俺は足を止めた。
 あいかわらず横にばかり大きな晃が汗をかきながら走ってくる。
「おはよー」
「うす。美奈は?」
「朝練だよー美奈は」
 晃のやたらとろい喋り方もなんにも変わってなどいないのだけれども。
 何か前とちがうように朝がはじまってゆく。
 きのうはありがとうなあ、と晃が言った。
 おう、と短く答えながら、ほんとうはこっちがありがとうなんだよ、と俺は心の中で言った。


01.3.24





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