ユッカの部屋は高田馬場のあのボロアパートが建ち並ぶ周辺、まさにその真ん中にあった。彼女は大学時代にここで独り暮らしをしていて、そして卒業してOLになってもまだこんな変な安アパートに住んでいる。好きなのだと彼女は言う。家賃が目の玉飛び出すほど安くて、台所には穴があいていて晩御飯の食べ残しは壁の向こうに住んでいるネズミが食べてしまうのだという、この部屋が。
 ユッカが奥の部屋でがらっと音を立てて窓を開けていた。私は一生懸命ブーツを脱ごうと悪戦苦闘していた。そこからユッカの後ろ姿が見えた。ユッカは何かを窓の外に投げ捨てたようだった。
 そしてまたがらがらと音を立てたてつけの悪い窓を閉めると、ユッカが振り向いた。
「夏海」
「何?」
「ちょっとそのまま待ってて、コンビニ行こう」
「うん」
 私はうなずいて靴をはき直した。
 狭い玄関に入りきらずに、私が靴を脱いでいる間ドアを押さえて外に立っている鳥架と、そしてこのボロアパートの主ユッカは私の大学の同級生だ。
 卒業してもよく私たちはこうしてつるんでいた。
 けれどそれはこの三人で、ではなかった。
 もうひとりいたのだ。
 柚古。
 彼がいない。今は。


 ユッカと私。そして柚古と鳥架。
 女ふたり、男ふたりでうまくいっていた。
 うまくいっていた、といってもユッカと柚古は在学時代に既につきあい始めていて、けれど鳥架に関しては私の片想いで、その恋は情けないほどに進展がなく、そしてひとりで突っ走った私はそれで何度も自爆して酷く傷ついたので、さっさとあきらめてしまった。今もその当時のことを思うと、全く狂気の沙汰だったと思わずにいられない。恋とは常にそういったものなのだろうか。それとも私の恋情の欲し方が常軌を逸したものなのだろうか。今となってはよくわからない。それについてはユッカも私と同類であったので、あまり現実的な比較対象もない。
 私たちはいつも大学から一番近いこの家に集まり、あらゆる季節を過ごした。夏の夜には花火をして、春になれば桜を見、秋冬は寒いのでこたつに足をつっこみ雀卓を囲んでいた。
 ユッカはいつも柚古の隣に座り、元来ずぼらでどちらかといえば豪快な彼女は決してかいがいしく尽くしたりなどしなかったが、それでも無口な柚古はいつもユッカのそばで静かに笑っていたし、ユッカは愛用の綿入れはんてん姿でよく柚古の膝に頭を乗せて眠っていた。
 柚古がここに来なくなって一月が経とうとしている。
 ユッカは何も言わない。
 まるで最初からそんな人などいなかったかのように、何も。


「鳥架、柚古とは連絡取れた?」
 ユッカが酒を選びに行っている間に、私はこっそり鳥架に聞いた。
「いや、俺は全然連絡取っていないから」
「……そう」
 連絡を取っていない、という鳥架の真意はわからない。単に面倒なのか、電話しにくいのか。それともどうでもいいものなのか、他に考えがあってのことなのか。どうせ聞いてもろくな答えが返ってこなさそうな気がして、私はお菓子を物色する鳥架を残し、ユッカのいる酒コーナーに向かった。
 柚古はビールが嫌いだった。匂いをかぐのもいやなのだそうで、柚古がいたころにビールを買ったことはなかった。私はビールが好きなので、柚古がいなければビールを飲みたい。けれどユッカの前であからさまに柚古がいないことを知らしめるような行動をとるのは気が引けて、冷蔵庫のドアを開けてサワーの缶をいくつも選んでいるユッカを眺めていた。
「夏海、何飲む?」
 ユッカが最下段の瓶を取るのにしゃがんだそのままの姿勢で私を見上げる。
「うーん。そうだね……」
 私はビール、とは言えずに何にしようか考えていた。しかしユッカはさらりと言った。
「夏海はビールでいいんだっけ?」
 あまりに自然にユッカが今までにはあり得なかった選択肢を口にするので、私はいきおい込んでうなずいた。
「う、うん。ありがと」
 ビールがあると近づいてこなかった人がいたという過去など、まるっきり存在しなかったかのように自然にユッカはビールをかごに放り込む。
「あ、ビールなら俺ソーセージ欲しいな」
 後ろから鳥架がそう言って惣菜の棚の方に去って行った。
 みんなそれぞれにもう頭の中で処理したのだろうか。
 そんなはずはないと。そんな簡単なものではなかったと。
 信じたいのだけれど。


 結局その疑問がずっと残り、ユッカの家に戻って三人で酒盛りをはじめてからもまだ、私はそれを引きずっていた。
 食べ物がひととおりなくなり、私は何かないかとユッカの冷蔵庫を勝手に物色していた。
「ねぇ先月のがまだ冷凍庫入ってるんだけど。料理しちゃうよ?」
「……あーうん、いいよ」
 ユッカの歯切れが少し悪くなる。
 私は冷凍のハンバーグを袋から出してレンジで温め、ストックしておいたデミグラスソースをかけた。このハンバーグとデミグラスソース。
 柚古の手作りだ。
「夏海、冷凍庫の全部使っちゃって」
 ユッカの声が追ってくる。
 冷凍庫の中身は、ほとんどこんな柚古の差し入ればかりだった。
 柚古は男のくせに家事一般が得意で、何故か彼が来ると台所はきれいになるし、コーヒーメーカーは洗ってあるしで、まるでこの家の主婦のようだった。彼がこの家に来なくなり台所が汚れるのではないかと懸念していたが、予想に反してここはまだきれいだった。なぜならユッカが台所を全く使用していないからである。
 私はハンバーグの皿をみんなが待つこたつの上へ持っていき、そして今度はコロッケを温めた。面倒くさがりのユッカのために、柚古は暖めるだけですぐに食べられる状態にしてから食べ物を置いていった。
「ユッカ」
 私はコロッケの皿を持ち、こたつの定位置に戻った。
 箸を置き、小皿にソースを落とす。これも食べ終わればなくなってしまう。
 私はこうしてこの家から柚古の気配が消えていくのが淋しかった。
「柚古はその後どうしてる?」
 思い切って私は聞いた。ユッカは滑稽なほどに間髪入れず、いつもより少し大きな声で答えた。
「知らない。そんな人、何してるか知らないよ。仕事してるんじゃないの?」
 柚古はずっと大学を出ても定職に就かず、ふらふらバイトをしながら暮らしていたが、ユッカと婚約したときについに就職した。そこは小さい雑誌社で、よく言えば少数精鋭、悪く言えば人手不足でとにかく忙しい会社らしかった。
 四年間うまくいっていたユッカと柚古の関係が軋み始めたのは、柚古の仕事が忙しくなりはじめてからだった。
 柚古がなかなかユッカと会えなくなり、私はユッカの愚痴を聞きなだめすかし、その言葉を柚古に届けたりしていた。
 私は柚古に会い、ユッカが淋しがっているから何とかしてあげなよ、と言った。柚古もそれはわかっているようだったのだけど、けれど今ちゃんと仕事をこなさなければこれから使ってもらえなくなる。今だけだから我慢して欲しい、というようなことを言った。
 皮肉なものだと思う。
 柚古はこれからユッカと結婚して暮らしていくためにこの仕事を選んだのに。それがふたりを別れさせる原因になってしまうとは。
「───ねえ、もう一度会って話してみたら?」
 私はあきらめきれなかった。
 今までの四年間。いろいろあったけれど楽しくやってきた。それが失われてしまうことがまだ信じられないのだ。
 けれどユッカは首を横に振るばかりだ。
「いい。もう今更話す事ないよ」
「……でも」
「それにさあ、なんかあの人、別れてみるとどうでもよかったなあって」
「ユッカ」
「だけどあんな人のために四年間無駄にしたと思うと頭に来るなあ。まあいいか、授業料だよねえ」
 ───無駄、だなんて。そんなことあるわけがない。どうでもいいなんて。
 最後にユッカと柚古が一緒にいるのを見たのは、東京駅だった。忙しくてなかなかユッカの家にこれない柚古を、ただ会社から家に帰るその一瞬を見送りに行ったときのこと。
 ユッカと一緒に、柚古の会社のある東京駅の近くで延々時間をつぶして、何度も柚古の携帯に電話して、そしてやっと終電間際になって柚古が帰れるというので、会社の下まで柚古を迎えに行き、そして千葉へ帰る柚古が乗る京葉線のホームまで送っていった。私は柚古にまつわりつくユッカがあまりにも幸せそうで、微笑ましくて、なんだかとてもうれしくて、一歩下がってふたりを眺めながら歩いた。ユッカはこのほんの十数分のために数時間待ったことも忘れて、満面の笑顔で柚古を見上げていた。
 ちょっと忘れがたい、それほどに稀有な笑顔だった。
 泣けるほどに幸せな光景だった。
 それがこんなふうに、急転直下の運命を迎えるなんてあのとき私は思わなかった。
「ねえ柚古忙しかったからきっとあんなふうに答えたんだよ」
 結局ほんの些細な行き違いがユッカのたまっていたフラストレーションに火をつけたようだ。
 詳しくは知らないが、ユッカが後に少しその時の状況を語った。
 忙しいから会えないと、そればかり繰り返す柚古に、会えない、淋しい、悲しい、そのストレスが一気に噴出してしまったユッカはキレてしまい、柚古に別れようと言ったらしい。そして柚古は売り言葉に買い言葉、というか仕事で疲れているのに無茶を言うユッカに苛ついて、そんなに勝手なことを言う奴とはつきあえない、さっさと別れよう、というようなことを言ったという。
「違うよ、あれ柚古の本心だったんだよ。別にいいけど」
「…違うよ、そんなことないよ…」
 鳥架は相変わらず、何も言わない。ユッカももう何も答えずサワーの缶を開けもくもくとスナック菓子を頬ばっていた。
「……」
 沈黙が重く、間が持たなくなり、私は換気しようと立ち上がりがらがらと窓を開けた。そしてふと目を落とすと、暗い地面に光るものが転がっていた。
「あ……」
 私は小さく声を漏らした。
 エメラルドの石のついた指輪。
 柚古がユッカにあげた婚約指輪だった。
 あれを柚古がユッカに渡したのはほんの三ヶ月くらい前のことだった。
 うらやましいほど、ねたましいほどに幸せそうだったのに。
 どうしてこんなふうに、人は離ればなれにならなければいけないんだろう。



 ひとしきり飲み食いし、眠気に襲われ私たちはいつものように適当にこたつの中で眠りについた。
 しかし二、三時間眠っただけで私は目が醒めてしまい、ふと辺りを見回すとユッカがいなかった。
 少し心配になったが、ユッカは自殺など考えるようなタイプではなく、コンビニに買い物に行ったか、いいところ夜の散歩だろうと思った。
 けれどやはりいずれにしても、ユッカも普通の状態ではないので、何かあったらたいへんだと私は思い、手近にあるコートをひっつかんで私は外へ出た。
 そして、とりあえずコンビニから探そうかと思った私は、玄関を出てすぐ足を止めた。
 ちいさく。声がした。
 押し殺した泣き声が。
 私は壁づたいにそっとその様子をうかがうと、ユッカがぺたんとむき出しの土の地面に座り込み、窓から捨てた指輪を掴んで泣いていた。
 私は声をかけることができず、息をつめてしばらくユッカを見ていたが、そっと足音を忍ばせ部屋へ戻った。
 すると鳥架が起きて座っていた。
「ユッカいた?」
「……うん」
「そう」
 私は暗がりの中で鳥架の顔を見た。
「起きてたの、ずっと?」
「うん」
 何でもなさそうに鳥架は言った。
「……コーヒーでも入れようか?」
 私はそう言って立ち上がり、電気をつけないまま台所に立った。そしてコーヒーを入れようとしたのだが、肝心のコーヒーメーカーのスイッチがどこかわからない。
「……ああ、そっか」
 いつもこのコーヒーメーカーでコーヒーを入れて飲んでいたのに。コーヒーを出すボタンは知っていても、もとになる電源の場所を私は知らない。
 そうだ、いつも柚古が全部用意してくれていたから。
 コーヒーメーカーだけ残り、柚古はもう二度と私にコーヒーを入れてくれることはないのかと思うと、不意に涙が出た。
 私たちはあんなにもうまくいっていた。ずっとかわらず四人でいられるものと信じていた。
 人がいなくなる、ということはこういうことなのか。
 私はこのコーヒーの豆をひいた香りをかぐと、そのたびにこうして柚古がいた日々を思って悲しくなるのだろうか。
 ふと振り向くと鳥架が無言で台所の入り口に立っていた。

 うっすらと夜明けを迎えた空気の色は僅かに闇の色を薄くして、ぽつん、とその台の上には、電源の入らないコーヒーメーカーが鎮座しているだけだった。
 音も立てず。
 ただそこにあり、そうして役にも立たないくせに存在だけを誇示しているのだ。

 過去の想いの如く。


00.1.19




back

もしこの小説を気に入っていただけたら、投票してくださるとうれしいです。