千織は雨の上がった暗い空を見上げた。
 つい先刻まで暗天を引き裂き雷鳴をとどろかせた雲はあっという間に遠く去り、耳元で囁く声以外の音全てを消し去るほどの大きな音を立てて降っていたスコールも止み、今はその名残が木々の葉を伝い地面の水たまりに落ちる音しか聞こえない。
 ぽちゃん、ぴちゃん、と。
 それは不規則に、音を待てば焦らされ待つのをよせばすぐ落ちる。そんな気まぐれさは、人工物がほとんどないこの自然に囲まれた南の地にはひどく相応しかった。
 時折強い風が木々を揺らし、ざあっと葉が重なり、触れあう音がする。
 ぼんやりと眺めたその先の、またさらに遠くの地平線の淵は赫く、そう遠からずこの南国の熱い太陽が昇るだろう。
 千織はふと傍らに眠る影に目を落とした。
 外の音と違い、規則正しい音。寝息。
 そっと髪に触れる。ほんとうは。ずっと触れてみたかった。美しい金の髪。太陽の色をしたその髪に。
 やさしく。そっとふれても彼は身動きすらせず、相変わらずその規則正しい寝息を聞かせるだけだった。千織は用心深く、少しずつ、少しずつ彼が起きないようにそっとゆっくりと顔を近づけ、するりとその頬に手を滑らせた。これで目を醒ましてしまうのではないかと千織は懸念し、思わず動きが慎重になる。が、それは杞憂に終わったようだった。
 そのまま太陽の色をした頭に唇を寄せ、顔を埋める。薄く目を開けると、まだ昇らぬ太陽の、しかしもうここまでわずかに届きはじめた光が自分の睫毛と彼の金の髪を透かして、きらきらプリズムのような輝きを放った。そのまま頬に手を滑らせ目蓋にくちづけた。
 ───不思議な気持ちだった。
 夜から夜明けへのほんのわずかなひとときを、こんなふうに迎えたのは初めてだった。さわさわ鳴る木々の音。透き通った空気。遠くで聞こえる鳥の声。

 そして。あいするひと?

 千織はゆっくりと半身を起こし、エフィの寝顔をもういちど見つめた。

 あいするひと。
 って、なんだろう。
 それは何?一緒にいたいと思うひと?横にいると幸せだと思う人?何があってもまもりたいと思うひと?それとも誰のものにもならないでほしいと秘かに願ってしまうひと?
 だれのことも見ないで、自分のことだけ見てほしいと。
 そう願った。
 どうして。
 不思議な、きもちがしていた。
「エフィ」
 眠るエフィの耳元で千織は囁く。それは彼を目覚めさせようとしてのことだったのか、眠りを妨げる気はなくけれど呼んでしまったのか、結局それすら自分でもわからない。
 なにも。もうなにもわかることなんてなかった。
 自分のこころのことなのに。
 正体の分からない不思議な不思議なものが心に入り込み、そしてそれにいいように支配されているだけ。そんな気すらした。
 けれどこれは自分以外の誰かの感情ではあり得ない。
 眠りを守りたいと思うその心と同じ大きさで、今すぐ目を醒まして名前を呼んで欲しかった。
「……エフィ」
 瞳を閉ざして。耳元で名を呼ぶ。鼓膜を通り、聴覚を震わせ、そして脳の奥胸の奥までもこの声が届くように、どんなに深い眠りのそこにあってさえこの声が届くように。
 そう祈り念じながら、その名を呼ぶ。
 エフィ。
 呪文のように、この世でいちばん大切に思うことば。
「エフィ」
 千織の声に、眠るエフィが目蓋を震わせた。
「おはよう」
 千織はさらにことばを重ね、半ば強引にエフィを眠りから引き剥がす。目覚めたエフィがふと、瞳を細めた。
「……朝?」
「うん。少し早いけど」
 本当は起こすには早すぎる時間で、だから千織は照れたように笑う。
「っていうかまだ、4時半。ごめん」
 すこし申し訳なさそうに笑う千織に、エフィが手を伸ばし、けれどすぐ戸惑うようにその手を止めた。
「……エフィ?」
 千織が笑んだまま小首を傾げる。
「どうしたの」
 ゆきばをなくしたエフィの右手が宙に浮いていた。ぽつりと、エフィが言う。
「……いや、触れても、いいのかと、思って」
「エフィ」
 千織は小さく声を立てて笑い、宙に浮いた手を自分のてのひらで包んだ。そしてそのまま自分の頬に触れさせる。
「どうしてそんなこと思うの」
 頬に触れた手から。
 不思議な熱が流れ込む。
 言葉にしたりしなくても、こんなにも簡単にわかる。
 この人に愛されていることが。
「……手には不思議な力があるんだって」
 千織の言葉に、エフィが不思議そうな顔をする。
「だから小さな子供が転ぶと、お母さんが手をかざすでしょ。触れたらわかる。その手の主が自分のことを好きなのか嫌いなのか。愛しているのかいないのか。今何を思っているのか───」
 そう言い笑う千織の手をエフィは取り、自分の胸に当ててみた。
「……どう、わかる?」
 千織が言った。
「……なんだろう」
「当ててみて」

 ゆびさきに、伝わる鼓動。
 このひとがここに生きているんだと実感する。

 神様。
 今日いまこの時まで、このひとを生きさせてくれてありがとう。

「……キスしたい」
 エフィが言う。千織が笑った。
「残念、はずれ。違います。でもいいよ」
 ゆっくりと降りてくる。
 あたたかい空気が、唇に触れる。

 キスするときは、瞳を閉ざして。
 そうでなければ、心を奪われて、きっともうそれは永遠に取り戻せないから。

 そんな言葉を思い出し、千織は閉じかけた瞳を開けた。
 心なんて、いくらでも奪ってくれていい。
 いくらでも。

 エフィの肩越しに見えたデジタル時計の大きな数字は、4:44をさしていた。






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